「植民地大学」

アメリカ占領期の沖縄高等教育――文化冷戦時代の民主教育の光と影

アメリカ占領期の沖縄高等教育――文化冷戦時代の民主教育の光と影

沖縄における戦後高等教育史、特に琉球大学の歴史について、私は知らないことが多くとても勉強になった。

戦後初期には、ジェームス・ワトキンスやウィラード・ハンナのような教養が高く、教育や文化の重要性を認識していた民事活動担当の将校達が、沖縄の教育復興に貢献したと言える。ミルトン・ミルダーをはじめとするミシガン・ミッションに携わった教授達の多くもまた、地域社会に奉仕するというランドグラント大学(二宮注:米国で1862年に制定されたモリル・ランドグラント法に基づいて作られた、農学や機械工学といった地域の発展のために「役に立つ」学問分野を重視した大学)の理念に則り、沖縄社会の復興と発展を牽引した多くの有能な若者達を育成した。琉球大学ミシガン州立大学の関係は、両校の学術交流が現在まで持続していることに鑑みれば、ミシガン州立大学をUSCAR(二宮注:アメリカ民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands))の傀儡と断じた一部の批判的な学生達との見解とは、明らかに異なるものであったと言えよう。
ただし、陸軍省の教育政策は、元来、戦略的に重要な拠点である沖縄の恒久的占領を目的とした文化政策の一環であった。それゆえ、沖縄の返還によって、その目標を達成できなかったというのが、沖縄占領期のアメリカによる高等教育政策に対する正しい評価と言える。そもそも、USCARの広報・文化政策は、占領統治の正当性を、沖縄住民に説得するどころか、反対に沖縄教職員会をはじめとする多くの市民団体の反発を招き、本土復帰に向けた社会運動の紐帯を固める結果となったのである。USCARは、米琉文化センターの設立や広報雑誌の無償配布といった活動を通じて、沖縄住民へのアメリカ文化の普及を試みたものの、本土と沖縄の歴史的、文化的紐帯を弱めることはできなかった。なぜなら、USCARの広報・文化政策には、占領する側とされる側の権力関係が、常に反映されたからである。とりわけ、教育分野は、政治経済的に「後進的な沖縄」の「アメリカ的近代化」という家父長的な特徴が、際立つ領域であった。ミシガン州立大学琉球大学の関係性を、「養子縁組」と形容する陸軍省が始めたミシガン・ミッションには、当初からアメリカの優位性が、明示されていたと言える。
さらに、占領期のアメリカ高等教育政策には、米ソ文化冷戦の要素も強く反映され、沖縄県内での共産主義勢力の封じ込めと不可分の関係性があった。琉球大学支援事業には、当初から反共親米エリート層の育成という冷戦期特有の政治的意図が明確にあり、冷戦コンセンサスの下、ミシガン州立大学ロックフェラー財団のような、アメリカ国内の高等教育機関や民間財団からの積極的な援助が得られたのである。琉球大学では、ミシガン州立大学教授団の助言の下、高等教育の拡充が、着実に進んでいった。
琉大の学生と教員を対象としたアメリカ留学生もまた、高等教育を政治的に利用した典型例であった。沖縄返還の時点で、琉球大学に勤めていた五六四名の専任講師の内、一割強の六一名は、アメリカの学位を有する教員であった。USCARは、留学生のアメリカ体験記さえも、文化冷戦の道具として利用した。
128-129頁

1953年、1956年の「琉大事件」はよく知られていることである。本書はその事件の背景にある米国による統治政策の特徴を、教育政策と関連させて明らかにした点で意義深い。反共思想に基づいて「学問の自治」が埋め込まれていない大学が存在していたということ、(高等)教育政策は統治のための政策という側面を免れえないということがわかるのである。
ただ、議論の対象のほとんどは琉球大学に向けられていて、沖縄全体の高等教育史がまとめられているというわけではない。一般に大学論が語られるとき、(銘柄)国立大学、四年制大学だけが念頭に置かれてしまうことがある。しかし、高等教育論・大学教育論で指摘されることがあるように、「私学」の存在を抜きにして大学論は語られ得ない。その点で、占領下の沖縄女子短期大学琉球国際短期大学などの設立と、米国による統治政策についても知りたいと思ってしまうのである。