「わがまま」をときほぐす作業

みんなの「わがまま」入門

みんなの「わがまま」入門

著者、出版社よりお送り頂きました。ありがとうございます。


http://sayusha.com/catalog/books/p9784865282306c0036
「はじめに」の全文は、出版社のウェブサイトから読めるようです(2019年4月22日時点)。


中学、高校生向けの講演が契機となって、まとめられた書籍とのことである。そのため、「はじめに」の後の構成は、1時間目「私たちが『わがまま』言えない理由」、2時間目「『わがまま』は社会の処方箋」、3時間目「『わがまま』準備運動」、4時間目「さて、『わがまま』言ってみよう!」、5時間目「『わがまま』を『おせっかい』につなげよう」となっている。なお、ここで扱われている「運動」というのは、「うん‐どう【運動】[名](スル)2からだを鍛え、健康を保つために身体を動かすこと。スポーツ。『肥満防止のために運動する』『運動競技』」(出所:デジタル大辞泉)という中高生によく知られた意味ではなく、「3 ある目的を達するために活動したり、各方面に働きかけること。『選挙運動』『労働運動』『委員になるため運動する』」(出所:同上)である。あまり馴染みのない言葉かもしれない。辞書の定義ではなんということもない言葉であるけれども、上記の「はじめに」やそれに続く1時間目では「運動」に対する現代的な、否定的意味づけの内容が紹介されている。そこで1時間目では、否定する必要などあるわけもない、運動に至る初発の問題意識や、その問題意識の展開を阻もうとする私たちの意識についての説明が行われている。

学校生活のなかで「あの子ずるいな」「あいつは自己中だな」と思うことはありませんか。「毎回授業に遅刻してきて、授業の進行が遅くなる」とか、「私はまじめに宿題をしているのに、なぜ私の宿題を写しているだけの人と、同じ点数なんだろう」とか…。
また、そういう他人に対する不公平感と同様に、自分を取り巻く環境に対する不満や違和感もあるのではないかと思います。「授業の時間が長すぎる」とか、「存在する理由がわからない校則がやたら多い」とか。
でも、学校生活のなかで不公平感や違和感があっても、おそらくあなたはあまり大々的には言わず、がまんをすることの方が多いのではないでしょうか。
もしかしたら、自分の違和感を大々的に表現したり、権利を主張する人のことを、「わがままだな」「空気読めよ」と思うこともあるし、素直に意見や不満を口に出す、そういう人もまたずるくて自己中だと感じてしまうかもしれませんね。少なくとも、私はそうでした。
だれかを「ずるい」と思うことも、不満や違和感を公にする人に対して「わがまま」と感じることも、よくあることだと思います。
でも、不満を表に出す人に対して「あいつはわがままだ!」と片付けて、自分自身はがまんしてしまうことで、わたしたちの生活する場所が今よりもっと窮屈で、苦しい場所になる可能性もある。がまんすることで、一時的に他人との衝突やモヤモヤをやり過ごせたかのように感じるかもしれませんが、じつは、それは自分の将来を縛っている行為でもあるのです。声は上げなかったせいで、未来の自分が好きなように振る舞えないのは、多分だれしも嫌ですよね。
どうしたら、がまんせずに不満や違和感を口にすることで、ムカつく教室(やクソみたいな職場)をちょっとはマシなものにできるのでしょうか。このことを考えるために、もう少し「わがまま」という行為について考えてみましょう。
17-18頁(1時間目)

私個人的には、3時間目くらいまではどうにか実践できそうだけれども、4時間目以降はなかなか難しい。学生と社会運動をテーマとして議論をする際にも(議論という言葉を嫌う分野の方は「意見交換」と読みかえて頂きたい、ほんとうは同じ意味ではないけれども)、この3時間目と4時間目の間で行ったり来たりすることが多い。138頁ではSNSの話題も取り上げられていて、まさに学生が気にする論点である。また、学生との会話のなかでは「まだ子どもなので、運動なんて縁がない」というものもある。かつて(さて、いつの時代でしょうか?)は中高生も何らかの運動へ積極的に、あるいは、親などの大人に連れられて消極的に(?)参加していた時代もあるけれども、おそらく現代はそうでもない。しかし、子どもであるという学生はいつ大人になるのか、そして、運動に縁が生じることになるのだろうか。さらに、筆者も言及しているように運動という概念をもう少し揺さぶってみれば、実は運動を行っていることもあるのかもしれない。
本書のおもしろい点の一つは、社会学の入門書としても読めるところである。社会学のレンズを通してある現象をみると、別の像が浮かび上がるという事例が豊富に紹介されている。ただ、私(ブログ主)の指導教員がかつてよく言っていたように「社会学は稲光(いなびかり)のような性格を持っていることがあるので、その瞬間はとても鮮明にわかった気になるんだけど、少し時間を置くとやっぱり見えなくなる/わからなくなる」こともあるので、紹介された事例の前後でそっと言及されている書籍や論文を読んでみるのもよいだろう。