半分の学生が単位を落としたとしたら、一番悪いのはそれを教えてた教員だと思う

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 京都産業大学で約20年の実績のあるキャリア教育科目を対象にして考察を行うことが目的となっている。キャリア教育科目といっても、心理学や教育学といった学問的背景をもつキャリア理論に基づく実践を扱うわけではなく、社会、特に産業界から求められる従順で聞き分けの良い姿勢やリーダーシップを発揮する構えを身に付けるような内容でもなく、まして、直接的に就職活動に役立つハウツーでもない。かつて私(二宮)が担当したことのある科目との類似点が多く、何度も頷きながら読み進めた。学生の意欲に関心をもつ大学関係者や、初年次科目の担当教員、就職・コミュ力キャリアプランニング志向のキャリア教育に問題意識をもつ関係者は必読の書である。

 この科目の初回授業は学期が始まって2、3週のちに設定され、必然的に履修制限単位の外に置かれる。学生の身になって考えると、単位不足を解消するために履修制限ぎりぎりで履修登録を済ませたあとにもうワンチャンス与えられるオイシイ科目ということになる。受講生のなかには、このルートではなく、単純にシラバスを読んで「あ、これは自分のための科目だ」と思って来る者もいれば、「低単位ではないけど、なんか面白そう」と思って来る者もいる。「なんか面白そう」と思って来る少数派を別にすると「とにかく単位が欲しい。授業の中身に関心はない。適当に参加して単位をもらえればそれでいい」と考えてやって来る学生が多数を占める科目なのである。
p. 4

以前に私は一橋大学で「学生生活の技法」という授業を企画、開講したことがある。GPAが2.0未満(経過措置期間は1.8未満)の学生は卒業できないという制度の導入に合わせて、ここでいう「オイシイ」「ワンチャンス」という体裁を整えた科目である。複数の教員がファシリテーション役を担うことで、履修する学生が自ら学生生活の道すじに沿って進んでいくことを構想していた。その際、特にファシリテーションに詳しい臨床心理士やユースワークの経験者にお世話になっていた。
 本書では2006年から2010年にかけて実施した、このキャリア教育科目の受講生を対象とした個人面談記録の分析が紹介されている。分析の結果、大学への関与を阻害する要因として、以下の4点の概念が抽出されたという。どこの大学でもあると想定される、学生による後ろ向きな心情や社会への敵対心である。

不信感
「大人は信用できない。大学の教員も、就職活動で出会う大人も建前と嘘ばっかりでうんざりする」
「社会人になるって、とにかく我慢して生きていくっていうこと。自分たちは大人につかい捨てられるだけ。バイトしていてもそれは感じる。就職しても同じだと思う」
「授業を履修していて、半分の学生が単位を落としたとしたら、一番悪いのはそれを教えてた教員だと思う。でも金を払わされるのは学生。悪いのは学生ってことになる。大学は何の責任も取らない」
「先輩とか(部活の)顧問とかの前で正座してお酒つがなきゃいけないとかって、そもそも理由がわかならい。不条理なことが多すぎる」
「こんな社会にした大人たちが許せない」


他律感
京産は第一志望じゃなかった。親に言われたから入った」
「経済学とか、全然興味ない」
「大学行って就職して、結婚してみたいな道ってもう決まっているじゃないですか」
「やりたい勉強が全然やれない。先生に言われたことをやるだけ」
「入れる学部に入ったって感じ。大学も高校の教員も親も、学部はどこでもいいと言っていた。


不安感
「自分にはすごく才能があると思う。でも何もできないかもしれないと思うこともある。結局何もできずに終わるとか、そんなことになるかもしれないと思うと不安で眠れない」
「社会人として働いてゆく自信がない。きっと傷つくと思う」
「相談できる人が誰もいない。恋人はいるけど、本当の自分は見せられない。恋人や親はむしろプレッシャーになっている」
「親の期待に応えられない」


疲労
「家から出られなくなるときがある」
「友達関係とか、バイトとか、何もかもうまくいかなくて、疲れた」
「授業に出て、部活をやって、バイトもして、お金をためて、資格を取ってとか、頑張ってやれたのは最初のうちだけ」
pp. 9-10

注目したのは「傷つく」という表現である。おそらくこの「傷つく」は他の要因においても出現される言葉であり「傷つけられる」ではないことが重要である。具体的な他者、たとえば大学や高校にいる大人の発言や行動によって「傷つけられる」とは言わない。やや雑なことを言ってみると、明確な問題が他者にあるのでそれを粉砕するという70年代までの「青年」像とはまったく異なる、それ以降に文学者、社会学者、精神科医などによって繰り返し指摘されてきた「やさしい若者」像の延長線上に、自ら傷付いてゆく当事者が立ち現れる。本書のタイトルである「大学授業で対話はどこまで可能か」は、もちろんこうした学生との対話、学生同士の対話を意図したものである。
 この授業は、自己、他者、尊厳感情、相互承認の場、自己ー他者対話、自己内対話などをキーワードとして、次に示すように計画されている。

1日目(2コマ) オリエンテーション、アートコミュニケーション、自分史を語る
2日目(2コマ) アイスブレイキング、ニックネームづけ
3日目~4日目(合宿5コマ) 物語創作ワーク、夜店プログラム
5日目(2コマ) 社会人との対話
6日目(2コマ) 5日目までの振り返り、7日目の準備
7日目(2コマ) 参加者からの応答
個人面談
学期末試験
p. 6 

この内容の一部は記述の「学生生活の技法」(希望者と履修をしていないけれども関心のある学生を対象として合宿も実施した)や、私が途中参加させて頂くことになった日本工業大学の初年次科目と重なるものである。後者の初年次科目の一つ「大学での創造的学び」(略称ダイソー)は、工学部における「ものつくり」と基礎的なライティング練習を念頭とするもののプログラムの内容じたいを学生が考案するというハードな授業であった。イマドキのものつくりは一人で完結するわけでもなく、文書を通じて他者と意思疎通を図ることも必要だからであった。本書で示されているプログラムからは、月並みな言葉ではあるものの全15コマを通じて「(ファシリテーターに支えられつつ、そのことの自覚もありながら)どこかで失った自分を自分で取り戻す作業」であるとも言えるだろうか。2024年1月に紹介した大学生を対象とするソーシャルワーク - 群馬大学 二宮祐研究室なかでも「(1) 学生が悩むことができる」というポイントと繋がっているだろう。悩む機会を奪わないためにファシリテーションが必要なのである。
 しかしながら、このような授業はファカルティから反発されることがある。私も既述の2大学において批判や抗議を受けたことがある。その理由は皆さんお気づきのとおり、専門的で学術的な知識を伝達するわけでもないし大学という場で続けられてきた西欧社会の伝統に基づく教養を身に付けるわけでもないからである。「これは大学ではない」「大学はもう終わりだ」という趣旨の言葉を頂戴することもあった。この書籍が良書であると評価した理由の一つは、そのような教員の反発を含む複雑な心情も紹介されているからである。コラム7(pp. 146-151)においてこの授業に関わっていた社会学者はキャリア論に対する懐疑、社会人ゲストによる講和に対する違和感、カントを引用しての人間観について説明している。大げさではあるものの近代以降の大学のあり方がユニバーサルアクセスの時代を迎えて問い直されているのである。本書ではそれを教室規範の解体と相対化、大学規範の解体と相対化という概念で表している。規範への着目という点でもとても勉強になった書籍ではあるものの、学術的にもう一段高めた分析を行う場合には「隠れたカリキュラム」への着目も必要であるように思われる。一見、「ゆるい」ように見えるファシリテーションが効いている場面であっても、そこには実は厳しい統制が働いていてだからこそその目的が達成されているかもしれない。授業を担う教員やファシリテーターもまた「隠れた」ものには気付きにくく、むしろ、反発するファカルティのほうがそれを言語化できることもあり得るだろう。