教員養成課程における教育社会学のテキスト

 著者からお送り頂きました。ありがとうございました。お礼が遅くなり失礼いたしました。勉強いたします。

 「はじめに」において、日本の教育社会学の特徴として、方法としての実証主義、社会学的理論と脱常識のマインド、社会的弱者へのまなざしと平等の価値、現場の教育実践への貢献を挙げたうえで、教職課程のカリキュラムにおいて教育社会学が扱われる際の論点を紹介している。

 以上が教育社会学の主な特色であるが、本書も上記の点を踏まえている。ただ、教員養成課程のなかで教育社会学を教えていると、教員養成の教育社会学と、それ以外の教育社会学では、その性格や目指すべき方向性が若干異なることに気づかされる。
 たとえば、教育社会学では「脱常識のマインド」が重視されるが、切れ味鋭い概念や視点は、ときに教育現場の現状を「暴露」し、教師達を困惑させることがある。研究者の立場からすれば「脱常識のマインド」は知的興奮をもたらすかもしれないが、実践者からすれば自分たちの考え方(常識)を批判された気分になってしまうことがある。みなさんに身につけてほしいのは、「脱常識のマインド」=相対化する視点だけでなく、わかりやすい言葉や造語に飛びつくことなく、教育現場に寄り添いながら教育の可能性を模索する粘り強さである
 また、実証主義の立場を重視する教育社会学では、何らかの調査によって得られたデータに基づいて議論することが求められるが、データからうかがえる子供たちの姿は、ある時点(調査が行われた時点)で切り取られた子供たちの姿である。また、質問紙調査やインタビュー調査に関していえば、そもそも質問されていないことについてはデータそのものが存在しない。データからうかがえる子どもたちの姿は、限定的なものとならざるを得ない。ある意味で、データのみで子どもたちを理解した気になることは危険である。みなさんには、子どもたちに関するさまざまなデータを参照しつつも、必要以上にとらわれるのではなく、目の前にいる子どもたちに寄り添い、知ろうとする姿勢や態度を身につけてもらいたい。
 社会的弱者へのまなざしと平等の価値についても、それらを大事にすることは学校や教師にとっても重要なことだが、各学校・各教師が平等さらには公正を追求しようとすればするほど、実際には長時間労働や教員不足をはじめとしたリソースの制約が立ちはだかる。教員養成の教育社会学では、今学校が置かれている現実を直視しながら、教師に何ができるのかを具体的に考えていかなければならない
以上のように、本書では教育社会学という学問分野の特色を「翻訳」し、教員養成の中に「移植」するというコンセプトを念頭に編纂した。
(はじめに ⅱ-ⅲ頁)

 教師になるための学習を進める学生に対して、教育社会学の意義を丁寧に説明している。現場へ振りかざすような知識ではあってはならないことが端的に示されているのである。
 私じしん(二宮)が学部生のときに習った教育学、教育社会学、教育行政学(実際の講義名称は「教育政策」という特殊なもの)を思い出しながら通読した。今でもよく覚えているのを複数挙げてみる。アマラとカマラの存在(第1章)は信ぴょう性が低いという注意付きで教わったからこそ記憶が鮮明である。IRE連鎖(第1章)については、わざわざクイズ形式で他人に対して何らかの問いへ答えさせるコミュニケーション、とりわけ質問者が実はその答えをあらかじめ知っていることを回答させるコミュニケーションは一般社会では極めて特異なものであり、場合によってはトラブルになるはずだという説明もよく覚えている。不登校(第7章)、いじめ(第8章)は80年代に問題が顕在化、社会問題化したことを契機として、90年代にようやく学術的な知見が重なりつつあった。教育社会学のテーマとしては新しいものであった。ジェンダー(第4章)、障がい(第5章)、移民(第6章)は教育諸学ではなく、他の社会学系の講義で教育に関連するテーマとして学んでいた。学校安全(第9章)、地域連携(第10章)、教師の働き方(第12章)は学部生のときにはまったく学習していないはずである。他方、カリキュラム(第2章)、教育格差(第3章)、教師のバーンアウト(第11章)はバーンスティンに即して深く学習していた。教育社会学は他の分野と比較して、教育内容の変遷が早いという特徴があるのかもしれない。
 単なる私的経験を通じてであるものの、2つのポイントを挙げてみる。1つは、「新しい教育社会学」を持ち出す必要性の有無である。学会においても「新しい教育社会学」という言葉が持ち出されるのはすでに稀である。本書でも同様に言及されていない。一方で、教育に関する現象を社会学などの観点を手がかりとして考察する際、「新しい教育社会学」以前と以後で比較することで見通しが良くなることもありそうである。もう1つは、本書は「学校文化」「生徒文化」の説明がほとんどない点についてである。類書では本書の各章に通底する論点として教育機関や学習者固有の文化について詳しく説明されることがある。IRE連鎖も学校文化の存在が重要であるだろう(「文化」とはそもそも何か、という問いはさておき)。多くの人が経験したはずであるものの、その通過後にはよくわからないものになってしまう文化である。おそらく教職課程での講義において学習者の関心が高いテーマである。
 最後に、私が解決しなければならない課題を記録しておく。「はじめに」で紹介されている「子どもたちに寄り添い」や「教育現場に寄り添い」という言葉に関して、院生の頃からなかなか理解できずに苦労している。「寄り添う」とは何をどのような順番でどのように行えば到達できる行為であるのか、じぶんなりの説明が難しい。かつて大学院のゼミでこの問いについて発言したところ「教育現場を知らないから理解できないのだ」という寂しい答えを頂いたこともある。「寄り添う」ことの教育社会学という課題を常に抱えているのである。

群馬大学ビブリオバトル2026年6月

sakuranomori.hatenablog.com
 群馬大学教養教育科目「若者と社会」では、毎年「知的書評合戦ビブリオバトル」を実施しています。異なる学部・学科の学生と一緒にグループワークを行うことで同世代の多様な価値観・考え方を知ることを目的の一つとしています。(自称を含む)若者に関連する書籍であれば自己啓発書やコミックなども認めています。本年度も群馬大学でもっとも大きな教室において、共同教育学部、情報学部、医学部医学科、医学部保健学科、理工学部の約200名が参加しました。その場で指示されたあるルールに基づいて6名前後のグループに分かれて実施しました。
 以下、チャンプ本を紹介します。なお、参加学生の皆さんは友だちではない見知らぬ他人と一緒に短時間の共同作業をスムーズに行う技法の検討と、「報告書」方式の文章作成が求められています!

<小説>
グループ「二宮教授レポート5点ください」
レイクサイド (文春文庫 ひ 13-5)
グループ「ごはん」
探偵ガリレオ (文春文庫 ひ 13-2)
グループ「にのゆう」
青天
グループ「4班」
アルジャーノンに花束を〔新装版〕 (ハヤカワ文庫NV)
グループ「イナズマイレブン」 および グループ「22班」
かがみの孤城
グループ「理工と保健」
小説 君の名は。 (角川文庫)
グループ「トマトギョウザピザりんご肉グループ」
何者(新潮文庫)
グループ「バンコク」
君の膵臓をたべたい (双葉文庫)
グループ「ニューイングランド・クラムチャウダー」
勝手に覗いて幻滅すんなよ (スターツ出版文庫)
グループ「にじゅうさん」
15歳のテロリスト (メディアワークス文庫)
グループ「実は稔が」
新装版 殺戮にいたる病 (講談社文庫)
グループ「No.12グループ」
みんな蛍を殺したかった
グループ「唐揚げ」
都会のトム&ソーヤ 外伝 16.5 魔女が微笑む夜 (YA! ENTERTAINMENT)
グループ「二宮LOVERES」
汝、星のごとく (講談社文庫 な 101-1)
グループ「いりじょう17」(※このグループは同点一位のチャンプ本が2冊あります)
夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく (スターツ出版文庫)
恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)
グループ「雄英高校、若者と社会頑張り隊」
カラフル (文春文庫)
グループ「ジュゲム」
少女不十分 (講談社文庫)
グループ「チームりんご」
祈りのカルテ (角川文庫)
グループ「チーム26」
いい人ランキング
グループ名称不明
ルカの方舟 (講談社文庫)

<人文・社会・経営>
グループ「ミッキーマウスの憂鬱」
先生、どうか皆の前でほめないで下さい―いい子症候群の若者たち
グループ「31のなり損ない」
無敵化する若者たち
グループ「二宮チルドレン」
嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え
グループ「冷やし中華」
愛とラブソングの哲学 (光文社新書 1277)
グループ「チーム24」
映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~ (光文社新書)
グループ名称不明
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(新潮文庫)

<コミック>
グループ「SIXTEEN」
魔王城でおやすみ(1) (少年サンデーコミックス)
グループ「にこにこちゃんねる」
今日から俺は!!(1) (少年サンデーコミックス)
グループ「僕たちのチームニジュウ」
無能なナナ 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)
グループ名称不明
ハイキュー!! 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

<その他>
グループ「群馬軍団」
夢追い日記(著者 浜辺美波)

米国高等教育における反DEI(Diversity・Equity・Inclusion)政策の動向

 著者よりお送り頂いた。感謝申し上げる。

 第Ⅰ部「研究費ファンディングの国際比較」では、研究開発に必要となる資金の配分・獲得のメカニズムを国ごとに紹介している。小林(2012)「科学技術政策と大学財政」『高等教育研究』第15週を引用して、つぎのようにまとめられている。

第一は、公的研究助成におけるGUF(General University Funds)からDGF(Direct Government Funds)へのシフトである。GUFは、大学運営のために政府が一括して配分する資金配分方式であり、DGFは、特定のテーマのもとで研究プロジェクトを実施するための研究費として、政府やファンディング機関が大学の研究者・研究グループに直接配分する資金である。これは、従来の大学への公的資金を、学生数や研究業績などの客観的指標に基づいて計算・配分する仕組みから、契約施行の配分根拠へ変化させ、いわば擬似市場的インセンティブを作る動きと言える。第二は、GUF内部の分化である。具体的には、業績主義ファンディング(performance-based funding)の導入であり、その典型例は、英国で、1986年から始まったRAE(Research Assessment Exercise、現在のREF: Research Excellence Framework)である。第三は、政策目的に応じたプロジェクト・ファンディングの拡大と多様化である。特定の研究領域の促進や、産業支援・イノベーションなどの政策ニーズへの対応がこれにあたる。Responsive mode(ボトムアップの研究提案)とtargeted mode(トップダウンの研究目的の設定)の二種類があり、日本での「提案応募型」は後者に該当する。第四は、COE(Center of Excellence)タイプのファンディングの台頭である。大規模な資金が選択的に少数の期間に配分されるものであり、その特性分析は2012年の時点では途上だと指摘されていた。
5頁

日本における大学に対する研究資金配分もおおむねこのような方法で行われるように変化したといってよいだろう。この変化が望ましいかどうかという価値評価はさておき、日本特有のものではなく世界の各国でも見られるのである。少なくとも日本において一部に人気のある「新自由主義と大学」のような大きな論点では捉えることのできない、研究資金配分の細かい特徴が説明されている。
 大学を対象とした研究の中でも教育に着目して研究を行う私にとって、より高い関心をもったのが第Ⅱ部「高等教育の政治家の中でのファンディング」である。第5章「高等教育の政治家をめぐる国際状況」、第6章「カナダ・ケベック州における英語系大学と授業料をめぐる騒動」、第7章「米国の反DEI―大学に対する反DEIの背景―」、第8章「トランプ政権成立後の米国の科学技術および高等教育をめぐる動向」、第9章「危機に立つ民主主義と大学―米トランプ政権による大学攻撃の世界的意味―」、終章「高等教育のファンディングと高等教育の政治化に関する論点整理」は、いずれも近年の大学が「政治の荒波」に翻弄される状況を描いている。特に、米国トランプ政権下で生じた変化についてインターネットで得られるような情報ではない、各分野の専門家による分析は勉強になった。
 その一つが以下に示す見解である。

 序説で提示した「多層的な介入構造」という分析視角は、反DEIが極めて計画的な政治プロジェクトであることを明らかにした。州議会の法制化、連邦議会の公聴会、大口寄付者の財政的圧力、保守系メディアの言説形成が、シンクタンクの政策文書(Project 2025やモデル法案)を設計図として連携し、大学への包囲網を形成した。介入はCRT(二宮注:批判的人種理論)批判から反DEI立法を基盤とする州レベルから、パレスチナ・イスラエル問題による「反ユダヤ主義」を触媒とした連邦レベルでと段階的に深化し、私立大学をも射程に収めた。その過程で、2020年中間選挙後の戦略転換、アイオワ州の「迂回戦略」など、保守派は政治的機会を捉えて戦略を柔軟に変更した。
 この多層的介入は、学問の自由、大学の自由、多様性の促進という大学の基本的価値への挑戦として、米国高等教育の転換点となっている。ただし、こうした介入は意図的に曖昧な文言で大学の自己規制を促すよう設計されたとの指摘もある(Chin 2025)。最高裁は多様な学生集団の教育的利益を認めているにも関わらず、2025年1月の大統領行政命令はDEI全体が違法であるかのような印象を与えようとしており、メリーランド州連邦地裁は憲法修正第1条違反の可能性を理由に仮差止命令を発出している。これは政権の介入が法的に脆弱な基盤に立つことを示唆している。こうした法的抵抗と政治的圧力の攻防がどのような帰結をもたらすかは、米国高等教育の将来を左右する重要な争点として今後も注視が必要である
 この状況がもたらす日本の高等教育への示唆として、国公立大学の財源的依存による構造的脆弱性、アメリカ大学教授職協会(AAUP)のような学問の自由を擁護する職能団体の不在が課題として浮かび上がる。また、日本のDEIをめぐる状況は米国ほど先鋭化していないが、外国人排斥や、ジェンダー平等・性的マイノリティへの保守的反発は現在でも存在し、これらが政治的に動員されれば同様の対立が再現される可能性がある。
155-156頁

日本においてもインターネット上の言説において反DEIのようなものを見かけることがある。また、学生によって提出されるレポートにも反DEIの必要性が書かれることもあるだろう。日本に対する別の示唆としては、むしろそれが現時点では政治的に動員されるまでには至っていない理由を検討することである。これまで高等教育は初等中等教育とは異なって政治的なアジェンダになりにくいという特徴をもっていたものの、トロウの言う「ユニバーサル段階」に到達した現代では国民的議論の対象になることが恒常化する可能性もあるのだろう。実は本書の第9章は教育学や教育社会学の研究者であれば他章との相違点に気付くことがあるはずで、そのことも政治的動員に関するポイントなのである。このような何を主張したいのかがわかりにくい煮え切らない文章になってしまうこともまた、同様の論点である。
 本書に関してあえて課題を述べるとすれば、「政治化」や「左傾化」といった概念の整理の必要性である。一般論としてなんとなく理解することはできるものの、本書の文脈においてこれらの概念がどのような意味をもつのかについての詳細な説明があれば、次の論点を編みやすくなったはずである。「教育政策が「政治化」していない時期など存在しない」とも言うことができるので、それに対する反論が準備されているとありがたいのである。

世界の新しい大学について

 ミネルバ大学を紹介する書籍だと思い込んでいた。しかし、実際には確かにミネルバ大学のカリキュラム、学習の評価法、授業方法、準正課・課外活動、教職員について詳細に考察を行いつつも、現代日本の大学に対する実践的な示唆を行っている重要な書籍であった。
 私が関心をもったことの一つは汎用的能力の考え方である。

汎用的能力の背後にある転移

 「転移(transfer)」というのは、学習したことがらを学習した文脈(課題や場面など)とは別の文脈で使うことである。学習した文脈と適用する文脈が近い場合を「近い転移(near transfer)」、遠い場合を「遠い転移(far transfer)」という。汎用的能力とは、前に述べたように、分野や場面を問わず広い適用性を持も能力のことであるから、いろいろな文脈に転移できる能力といいかえることもできる
 大学を含め学校というところは、学習者が学校で学んだことを学校外・学校後の社会や人生において、直接的であれ間接的であれ、何らかの形で活かすことを目指している。したがって、転移、とりわけ遠い転移は学校教育を根本のところで支えている考え方だといえる。だが、転移が可能か、どんな要因でそれが決まるかのは、実は、研究者の間でも見解が一致していない。認知科学者のバーネットとセン(Barnett & Ceci, 2002)は、過去1世紀の間の主要な転移研究をレビューし、内容(何の転移か)と文脈(いつ・どこから、いつ・どこへの転移か)に関する9つの異なる次元で、転移研究を分類した。そして、同じ転移という現象であっても、文脈の次元や転移の近さ・遠さの程度によって、その研究結果に違いが生まれ、結論に混乱が生じている、と論じた
 ミネルバでは、この転移、とりわけ「遠い転移」という考え方を使って、汎用的能力の育成を図ろうとしている。いいかえれば、ミネルバの教育は、転移の可能性や意義に対する批判や懐疑への挑戦とみなすことができる。鈴木(二宮注:認知科学者の鈴木宏昭)は、転移の生じにくさを根拠にして、汎用的能力の育成を「教育ごっこ」と批判したのだが、ミネルバでは、これまでのやり方では転移が生じにくいということわかった上で、だからこそこれまでとは異なるやり方で転移を生じさせ汎用的能力を育成しようとしている。鈴木が、主に実験室環境―つまり、転移の必要性を学習者自身が感じるような文脈やそのための援助となるような道具立てがない環境―での知見を根拠にしているのに対し、ミネルバでは現実の教室や教室外で、転移が確かに生じ、それが学生の汎用的能力を形成するという事実を作り出そうとしているのだ。

15-16頁

「遠い転移」という考え方は日本における「大学から職業への移行」を捉える際にも重要であろう。工学部での専門分野の習得が就職先ですぐに役立つということがあるように、工学部のそれぞれの研究室において研究に関するマネジメント方法を陰に陽に伝達する「研究室教育」によって身に付けた組織運営のスキルも将来において有用であるかもしれない。同時に、「遠い転移」の先をとりあえずミネルバが想定するビジネス領域であるとした場合に、その(コンピテンスに対応するという意味での)パフォーマンスの評価はミネルバではなくビジネス領域で行われるべきでもあるように捉えられる。就職先でのミネルバ出身者の評価がどのようなものなのかについて、検討する課題が残されているのであろう。他方、ビジネスに傾倒する問題として次のような課題も指摘される。

 ミネルバでは、社会との関わり方は、もっぱら「適応」として語られ、「抵抗」の側面にはほとんどふれられていない。ミネルバの「指針原則(guiding principles)」の最初には「慣習にとらわれないこと(Being unconventional)」が掲げられているが、これは「抵抗」というよりはむしろ変化への「適応」に必要な態度だろう。

272頁

日本における汎用的能力に関する主張の多くもまた「適応」を目指したものである。筆者によればミネルバは確かに「抵抗」ではないものの単なる「適応」でもなく、「創造」であるという。ミネルバの教育内容・方法を経験した学生の進路は「創造」が強く求められるスタートアップ企業が向いているようにもみえる。そのうえで、この「創造」という観点は個人の職業的アイデンティティに関することとして今後の論点になるように思われる。というのも、専門分野における高度な知識・技能ではなく汎用的能力の習得は職業的アイデンティティをあいまいなものにしてしまうためである。たとえば、「医療人」はその職業的アイデンティティを習得した医学分野の高度な知識・技術を基盤として構築できる。しかし、「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」をもつだけの人は、それそのものから職業的アイデンティティを立ち上げることは難しいだろう。汎用的能力の議論はこうしたアイデンティティに関する難問を捨象してきたわけであるが、「創造」はこの問題に関する一つの解法となりえる。
 私が関心をもったもう一つのことは教員の機能分化である。

教員の機能分化

 ミネルバ大学の教員は全員博士号を取得しているが、ミネルバの職務としては教育に専念することを求められる。一般教育科目(コーナーストーン科目)の授業の実施、専門教育科目の設計・実施、それぞれの評価(毎授業後の全員に対するフィードバック、課題の評価など)、キャップストーンやシニア・チュートリアルの指導、授業やカリキュラムの評価・改善のためのミーティングなど、教育上の職務は多岐にわたり、負担はかなりのものであると推察される。また、教員自身の居住地が限定されないというメリットはあるが、基本的に、任期は3年で再任は1回のみとなっている(第5章参照)。
 教員たちは、ミネルバ大学の理念に賛同して応募し、詳細な「職務記述書(job description)」をもとに契約を交わして入職しているので問題はないし、流動性の高い社会では、任期の短さもマイナスには感じられないかもしれない。ミネルバの教員を勤めたという職歴は彼らのキャリアのプラスになるだろう。
 だが、所属大学で教育と研究の両立を図りたい教員には、このようなミネルバ式の雇用形態は認めがたいものだろうし、雇用流動性が低い日本社会において、仮に既存の大学がこのようなやり方を導入しようとすれば、大きな軋轢を生むことになるだろう。
 そもそも、ミネルバの教員たちが博士号を取得しているということは、彼らの養成においては、博士号を授与する研究大学の存在に依存しているということを意味する。ミネルバ大学は、「難関」とはいえ。学士課程教育に重点を置くリベラルアーツ大学であり、雇用流動性の高いアメリカの大学であることを忘れるべきではない。 
 他方、日本の大学において、教員に求められる教育・研究・管理運営・社会貢献の4機能のうち、近年とくに管理運営や社会貢献の機能が肥大化して教育や研究にしわ寄せが来ているという現状を見ると、教員の職務が明確に記述され、教員と職員の役割が切り分けられた上で教職協働がなされている点、テクノロジーによって徹底的に効率化が図られている点など、ミネルバから学べる点も多い。

270-271頁

 当方が検討するべき論点が2つある。まず、日本における教育専任教員の言説と実態についてである。常勤の教員であっても教育以外の業務を期待されない教員はかつてから存在していたはずであるけれども、そのことがたとえば「大学改革」の論点として取り上げられたことはない。特に、高校までの学修が必ずしも十分ではない学生を受け入れる現代の大学においては、教員のほとんどのエフォートを教育に割り当てていることもある。このような実態と、その実態に関連してそれがあるべき姿なのかという言説について、考察の蓄積はまだ少ないはずである。次に、教職協働についてである。かつての日本的経営論においては、ジョブディスクリプションが存在しないこと、あるいは、極めて曖昧に設定されていることこそがかえって日本の経営の強さであると言われることがあった。この主張じたいも吟味する必要があるとはいえ、たとえば、当方が行ってきた「新しい専門職」論の観点からすると、ジョブディスクリプションを細かく記述することによるデメリットについても考えておく必要があるはずなのだ。

会社勤めをしていた頃に案内された極秘の研修案件

diamond.jp
 ダイヤモンド・オンラインというビジネス系ウェブ雑誌がある。ビジネス系とはいっても業界事情、個別の経営戦略、自己啓発のみならず、政治や社会問題など幅広い記事が掲載されている。大学に関する記事も少なくなく、人気序列、大学法人経営、受験事情などビジネス系雑誌の読者が興味をもちそうなコンテンツが充実している。ただし、記事の中にはその意図を理解することが難しいものも含まれている。たとえば、2026年5月14日に掲載された「消滅の瀬戸際に立つ大学がズラリ!3年連続で「大幅定員割れ」した30校の実名リストを大公開!!」は、いわゆるエスカレーター式進学を可能としている学校法人のうち大学定員の充足率が低い機関を紹介しているものの、そのことが即座に系列中学校・高校の閉校を意味するわけでもないし、系列外である他大学への進学を妨げることになるわけでもない。読者にとってはエスカレータ式かどうかにかかわらず単に経営不振の大学(実際には経営不振であることと充足率はまた異なる論点である)の名称が印象づけられるだけであろう。
 さて、ダイヤモンド社を名乗る企業から勤務先へ電話を貰ったのが会社員1年目の5月から7月にかけてのことである。同社を名乗る電話は私の大学同期で製造業や商社で働く知り合い数名も受けていたことが後になって判明する。電話の特徴は次のとおりである。

  • 当方の正しい所属名称、氏名を挙げる。
  • 有名メディアの一つであるダイヤモンド社と名乗る。
  • 1〜2週間に1回程度の頻度で電話による連絡がある。
  • 当方勤務先の社長による極秘案件のため、けっして上長や同僚などに対して本件の存在を漏らしてはいけないと口止めされる。
  • あなたは特別に事前選抜された人材であるために、勤務先社長によって推奨された特別プログラムの研修を受講できる。
  • ダイヤモンド社も太鼓判を押す素晴らしい研修であり、過去の受講者のほとんどがわずか数年でマネージャーへ昇格している。
  • そこで、 研修の前に一度面談をさせてほしい。

まったく信用できない内容である。そもそも私の勤務先社長は新卒採用やそれによって採用した若手に対してあまり関心がなく、採用選考における面接での内容も「なぜ弊社は即戦力の中途採用ではなく、わざわざあなたがたのような何もできない新卒を採用しなければならないのですか?」という挑戦的なもの含まれていたほどであった(今から思えば就職氷河期こその質問である)。もう少し補足をすると、オフィスにふらりとやってきていつも機嫌の悪い顔をしている孫正義がそんな面倒なことをするわけがない、私のいた部局こそが研修の企画も担っていた、私はまったく優秀ではなく凡人なので(涙)選抜の対象になるわけがないのである。
 面白いので電話を受けるたびに周囲の上長や同僚に対して、電話の内容を報告していた。当然、皆がそれは詐欺とまでは断定できないものの怪しい案件であると言う。3ヶ月の間に何度も電話がかかってきたものの、あえて要領の得ない対応をしていた。これにかかわらず、怪しい電話は毎日のようにかかってきていたのである。後日になって知人に対しても同じ内容の電話連絡があったことがわかり、やはり、他社においても真面目に取り扱う案件ではないと処理されたいたようである。
 とはいえ、今になってもほんとうにダイヤモンド社がこの電話をかけていたのかはわからない。確かにダイヤモンド社は研修事業を行っていて、それは当時同じ電話を受けた知人とも確認している。しかし、このような怪しい勧誘を有名メディアが行うだろうか。もし、ダイヤモンド社などが本エントリに対して疑義をもつようであれば対応する所存である。