ミネルバ大学を紹介する書籍だと思い込んでいた。しかし、実際には確かにミネルバ大学のカリキュラム、学習の評価法、授業方法、準正課・課外活動、教職員について詳細に考察を行いつつも、現代日本の大学に対する実践的な示唆を行っている重要な書籍であった。
私が関心をもったことの一つは汎用的能力の考え方である。
汎用的能力の背後にある転移
「転移(transfer)」というのは、学習したことがらを学習した文脈(課題や場面など)とは別の文脈で使うことである。学習した文脈と適用する文脈が近い場合を「近い転移(near transfer)」、遠い場合を「遠い転移(far transfer)」という。汎用的能力とは、前に述べたように、分野や場面を問わず広い適用性を持も能力のことであるから、いろいろな文脈に転移できる能力といいかえることもできる
大学を含め学校というところは、学習者が学校で学んだことを学校外・学校後の社会や人生において、直接的であれ間接的であれ、何らかの形で活かすことを目指している。したがって、転移、とりわけ遠い転移は学校教育を根本のところで支えている考え方だといえる。だが、転移が可能か、どんな要因でそれが決まるかのは、実は、研究者の間でも見解が一致していない。認知科学者のバーネットとセン(Barnett & Ceci, 2002)は、過去1世紀の間の主要な転移研究をレビューし、内容(何の転移か)と文脈(いつ・どこから、いつ・どこへの転移か)に関する9つの異なる次元で、転移研究を分類した。そして、同じ転移という現象であっても、文脈の次元や転移の近さ・遠さの程度によって、その研究結果に違いが生まれ、結論に混乱が生じている、と論じた
ミネルバでは、この転移、とりわけ「遠い転移」という考え方を使って、汎用的能力の育成を図ろうとしている。いいかえれば、ミネルバの教育は、転移の可能性や意義に対する批判や懐疑への挑戦とみなすことができる。鈴木(二宮注:認知科学者の鈴木宏昭)は、転移の生じにくさを根拠にして、汎用的能力の育成を「教育ごっこ」と批判したのだが、ミネルバでは、これまでのやり方では転移が生じにくいということわかった上で、だからこそこれまでとは異なるやり方で転移を生じさせ汎用的能力を育成しようとしている。鈴木が、主に実験室環境―つまり、転移の必要性を学習者自身が感じるような文脈やそのための援助となるような道具立てがない環境―での知見を根拠にしているのに対し、ミネルバでは現実の教室や教室外で、転移が確かに生じ、それが学生の汎用的能力を形成するという事実を作り出そうとしているのだ。
15-16頁
「遠い転移」という考え方は日本における「大学から職業への移行」を捉える際にも重要であろう。工学部での専門分野の習得が就職先ですぐに役立つということがあるように、工学部のそれぞれの研究室において研究に関するマネジメント方法を陰に陽に伝達する「研究室教育」によって身に付けた組織運営のスキルも将来において有用であるかもしれない。同時に、「遠い転移」の先をとりあえずミネルバが想定するビジネス領域であるとした場合に、その(コンピテンスに対応するという意味での)パフォーマンスの評価はミネルバではなくビジネス領域で行われるべきでもあるように捉えられる。就職先でのミネルバ出身者の評価がどのようなものなのかについて、検討する課題が残されているのであろう。他方、ビジネスに傾倒する問題として次のような課題も指摘される。
ミネルバでは、社会との関わり方は、もっぱら「適応」として語られ、「抵抗」の側面にはほとんどふれられていない。ミネルバの「指針原則(guiding principles)」の最初には「慣習にとらわれないこと(Being unconventional)」が掲げられているが、これは「抵抗」というよりはむしろ変化への「適応」に必要な態度だろう。
272頁
日本における汎用的能力に関する主張の多くもまた「適応」を目指したものである。筆者によればミネルバは確かに「抵抗」ではないものの単なる「適応」でもなく、「創造」であるという。ミネルバの教育内容・方法を経験した学生の進路は「創造」が強く求められるスタートアップ企業が向いているようにもみえる。そのうえで、この「創造」という観点は個人の職業的アイデンティティに関することとして今後の論点になるように思われる。というのも、専門分野における高度な知識・技能ではなく汎用的能力の習得は職業的アイデンティティをあいまいなものにしてしまうためである。たとえば、「医療人」はその職業的アイデンティティを習得した医学分野の高度な知識・技術を基盤として構築できる。しかし、「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」をもつだけの人は、それそのものから職業的アイデンティティを立ち上げることは難しいだろう。汎用的能力の議論はこうしたアイデンティティに関する難問を捨象してきたわけであるが、「創造」はこの問題に関する一つの解法となりえる。
私が関心をもったもう一つのことは教員の機能分化である。
教員の機能分化
ミネルバ大学の教員は全員博士号を取得しているが、ミネルバの職務としては教育に専念することを求められる。一般教育科目(コーナーストーン科目)の授業の実施、専門教育科目の設計・実施、それぞれの評価(毎授業後の全員に対するフィードバック、課題の評価など)、キャップストーンやシニア・チュートリアルの指導、授業やカリキュラムの評価・改善のためのミーティングなど、教育上の職務は多岐にわたり、負担はかなりのものであると推察される。また、教員自身の居住地が限定されないというメリットはあるが、基本的に、任期は3年で再任は1回のみとなっている(第5章参照)。
教員たちは、ミネルバ大学の理念に賛同して応募し、詳細な「職務記述書(job description)」をもとに契約を交わして入職しているので問題はないし、流動性の高い社会では、任期の短さもマイナスには感じられないかもしれない。ミネルバの教員を勤めたという職歴は彼らのキャリアのプラスになるだろう。
だが、所属大学で教育と研究の両立を図りたい教員には、このようなミネルバ式の雇用形態は認めがたいものだろうし、雇用流動性が低い日本社会において、仮に既存の大学がこのようなやり方を導入しようとすれば、大きな軋轢を生むことになるだろう。
そもそも、ミネルバの教員たちが博士号を取得しているということは、彼らの養成においては、博士号を授与する研究大学の存在に依存しているということを意味する。ミネルバ大学は、「難関」とはいえ。学士課程教育に重点を置くリベラルアーツ大学であり、雇用流動性の高いアメリカの大学であることを忘れるべきではない。
他方、日本の大学において、教員に求められる教育・研究・管理運営・社会貢献の4機能のうち、近年とくに管理運営や社会貢献の機能が肥大化して教育や研究にしわ寄せが来ているという現状を見ると、教員の職務が明確に記述され、教員と職員の役割が切り分けられた上で教職協働がなされている点、テクノロジーによって徹底的に効率化が図られている点など、ミネルバから学べる点も多い。
270-271頁
当方が検討するべき論点が2つある。まず、日本における教育専任教員の言説と実態についてである。常勤の教員であっても教育以外の業務を期待されない教員はかつてから存在していたはずであるけれども、そのことがたとえば「大学改革」の論点として取り上げられたことはない。特に、高校までの学修が必ずしも十分ではない学生を受け入れる現代の大学においては、教員のほとんどのエフォートを教育に割り当てていることもある。このような実態と、その実態に関連してそれがあるべき姿なのかという言説について、考察の蓄積はまだ少ないはずである。次に、教職協働についてである。かつての日本的経営論においては、ジョブディスクリプションが存在しないこと、あるいは、極めて曖昧に設定されていることこそがかえって日本の経営の強さであると言われることがあった。この主張じたいも吟味する必要があるとはいえ、たとえば、当方が行ってきた「新しい専門職」論の観点からすると、ジョブディスクリプションを細かく記述することによるデメリットについても考えておく必要があるはずなのだ。