ハノイでの調査を終えて

 先日、ハノイを訪問して現地の皆さまからお話しを伺いました。ありがとうございました。

 さて、帰路の夕方のことである。キンマー通りから、鉄道の駅であるハノイ駅へ路線バスで向かうことにした。ハノイ駅で空港行きの格安86番バスに乗り継ぐためである。ハノイの路線バスによる移動の情報はGoogleマップのルート検索で得られるようである。しかし、短期滞在のためにWi-Fiの準備をせず、事前に調べておいた古いバス路線図を見て作成した手製のメモを頼りにすることにしていた。32番のバスに乗り、15分ほどで無事ハノイ駅へ到着した。深夜に出発する航空便のチェックイン時間までには余裕がある。そこで、旧市街の方へ歩いてみて1時間ほどで戻ることにした。
 外国人観光客でにぎわう旧市街を散策して、ハノイ駅へ戻ろうとした。しかし、どれだけ歩いても記憶にある駅周辺の街並みに出会わない。後日地図で確認したところ、タンロン城跡やレーニン公園の辺りで迷子になっていたようである。Wi-Fiを持っていなかったために、自分の位置をスマホで確認できないのである。困ってしまったものの、偶然、公園横のバス停で32番のバスに乗れることを発見した。どちらの向きに進むのかはわからなかったけれども、そのバスに飛び乗ってみた。すると数分で見覚えのあるキンマー通りに無事戻ることができた。なお、線路の見える写真は旧市街からの帰り道で方向感覚を決定的に失った場所の一つである。
 手製メモに従って再び駅に向かう路線バスに乗った。今度は25番のバスである。32番とは違って、キンマー通り沿いの小さなバスタミナールを経由した。少し不安になりながらもバスに乗り続ける。しかし、想定よりも早くバスが右折してしまう。これも後日知ったことだが、ハノイ駅には「A駅」と「B駅」があり、私が想定していた空港行きのバスが出発するのは「A駅」である。右折したバスは「A駅」を通らず、「B駅」もよりもさらに西側を走っていた。後になってわかったことではあるが、ハノイ都市鉄道の駅の辺りである。その時点では、いずれ「A駅」の方へ向かうのだろうと思っていた。しかし、乗車してから30~40分ほど、日が沈みゆく方角から考えるとバスはひたすら「A駅」からも「B駅」からも離れて南下しているようである。
 日が暮れてとても不安になってきた。自分がどこにいるのか再びさっぱりわからないのである。ハノイ駅に通じるのであろう線路がかろうじて見えるために、市域の南側にいることだけは想像できた。財布の中の残金は約80,000ドン(≒500円)しかなく、タクシーにも乗ることができない。空港行きのバスに乗るために45,000ドンを残しておかなければならないのであった。そもそもハノイではとても便利であるというタクシーアプリさえ持っていない。街中のATMでキャッシングをしたうえで、どこかのホテルに駆け込んで空港までのタクシーを手配することまで想定せざるをえなくなっていた。バスの中で誰に向けるわけでもなく英語で「キンマーへ行きたい」と言ってみた。すると、複数の乗客が反応してそれぞれのスマホでバスでの移動方法の検索を始めてくれた。ちょうどバスが郊外の大きなバスターミナル(乗客の高校生らしき方は「コーチターミナル」と言っていて、後に調べたところおそらくザップバットという有名なバスターミナルである)に入ったところ、10名ほどの乗客全員が「今すぐここで降りて、目の前の32番バスに乗れ」と教えてくれた。皆さんとても親切であった。特に、高校生らしき方が懸命にアドバイスをしてくれた。何度も何度もお礼を言って、その日3回目の32番に乗ることになった。
 32番バスにそのまま乗り続けていればキンマーに戻ることは可能である。しかし、往路は「A駅」の目の前を、復路は「A駅」の付近を通ることを手製メモに控えていたので、カンを働かせてある場所で隣の乗客に英語で駅に行く方法を尋ねる。案の定、次のバス停で降りて直進して歩くといいという助言をもらう。なんと再び、バスの乗客全員15名ほどが応援してくれる雰囲気になった。再度、大声で皆さんに対して感謝を伝えた。一緒にバスを降りることになったお年寄りからは「ありがとう」と日本語で伝えられた。いや、感謝を言うべきなのは私のはずであった。そうして無事に「A駅」に辿り着いて、86番バスで空港へ向かうこちになった。道に迷い始めてから2時間ちょっと、バス代42円+48円+42円=132円の冒険だった。バス車内の乗客の皆さんに対してほんとうに感謝している。
 こういうことにならないように、短い出張であってもWi-Fi、グーグルマップ、観光ガイドブックは準備しておきたい。

キチョハナカンシャの意味していたもの

 本書の問いは「なぜ大学生はやりたいことを語り、また問われるのか?」というものである。2012年から2014年頃に大学生を対象として実施したインタビューの結果を対象として分析を行っている。私の記憶では、この頃学生の間で「キチョハナカンシャ」という言葉が話題になっていた。会社説明会の際に学生によって多用される「本日は貴重なお話をありがとうございました。さて、御社では~?」というフレーズを面白く表現したものである。この「さて御社では~?」と続く企業に対する質問は、おそらく本書が課題とする「やりたいこと(であると、とりあえず学生が認識して表現するもの、または、表現を求められるもの)」との接続が意図されていたはずであり、今となっては含蓄に富むコミュニケーションであったとも思われる。分析においては、特にインターネットを利用して求職者と求人者を結び付ける「労働市場媒介者」と、社会学で研究されてきた「状況の定義」という概念が参照されている。後者の「状況の定義」を援用することによって、「行為の主観的な意味を記述する視点を提示できること、その時々の語りが就職活動状況と関連すると提示できること、その行為における主観的意味がその後の行為に影響を与えること(p. 91)」が可能であるとされる。選抜・配置の仕掛けやトリック(?)と、その(学校)教育的な意味付けに関心をもつことの多い教育社会学とはやや異なるアプローチであり、とても勉強になった。また、このエントリでは言及しないものの、想定される問いの背景には個人がライフコースの「選択」を行う/行うことを強いられることの意味を考えるという後期近代論やリスク社会論が存在している。
 問いに対する答えは次のようなものである。

 なぜ大学生は「やりたいこと」を問われ/語るようになっていくのか、本書冒頭に立てた問いに戻ってきた。この答えはイベント型の就職活動の仕組みにある。つまるところ、自由応募の就職活動とは企業、大学生それぞれの行為を就職情報サービスが媒介し、維持するイベント型の就職活動とみることができる。その活動において三者それぞれに「やりたいこと」が用いられる。こうした労働市場におけるマッチングの仕組みが「やりたいこと」を問い/語る行為を求めているのである。
pp. 206-207

 さらにいえばホワイトカラーへ参入していく大学生は、かつてのように与えられた仕事をこなすことが重要だと考えているわけではない。これまで仕事は企業が与えるものであり(田中 1980)、それを引き受けることで戦後日本型ライフコースを所与のものとできた。だからこそ、「やりたいことをやる」という言葉が「サラリーマン」とは相容れないものだったのである(c.f. 久木元 2003、新谷 2004)。一方、ここまでみてきたように、現在の大学生は企業の利害を自らの「やりたいこと」に一致させる。仕事に就く前であるにも拘らず戦後日本型ライフコースに則った将来の生活設計を彼らは語る。こうして入口において彼らが選び取る働き方は旧来的な企業中心の働き方である。少なくとも、労働市場は就職活動を行う大学生にこれ以外の安心を提供できてはいない。ただし、これらはインスタントで脆弱な選択でもある。
 労働力の需要者と供給者のマッチングをめぐる社会的状況において、大学生は一見すると自由に選択することが可能になっている。企業側はその内部での働き方を示し、大学生も「やりたいこと」を語る。調整に失敗した者だけがその自由の矛盾にされされる。この点において学校間格差が明らかであった時代と、企業と大学生との関係は異なる。本書は、イベントを媒介に大学生は企業の情報を得、企業は彼らの選択を問い、結果的に旧来的な働き方によってマッチングが行われる労働市場となっていることを明らかにした。二〇一〇年代、「やりたいこと」を用いたこの仕組みによって市場取引は維持されていた。
pp. 207-208

2010年代の大学生が「やりたいこと」を語り/語らせられながらも、ここで教育社会学の言葉を使ってみれば結果的に「トラッキング」から逃れられないという結論は重要である。ジェンダー・トラック、大学の属性に関するトラックなどは「やりたいこと」をその字義通りに叶えることを妨げる場合も多いのである。
 ところで、文系の私(二宮)は1997年春に学部生として就職活動を、2002年夏に就業経験のある修士課程院生として就職(転職)活動をした。前者の1997年は就職協定が廃止された後であり、かつインターネットを利用する就職活動・採用活動が始まる前である。思い出してみると、エントリーシートのような制作物はあまり普及していない、OB・OG訪問やリクルーター制が機能している(ただし大学・学部による)、SPIなどのペーパーテスト(学力と性格)は普及している(内田クレペリン検査を課すところもあった)、総合職・一般職の区分は少しずつ廃止されながらも一般職は直接的な雇用関係のない派遣社員に置き換えられ始める、派遣社員化が行われない場合でも全国転勤職・エリア職のようなコース制管理が導入されるといった時期であった。確かに「やりたいこと」はまったく問われないわけではなかったものの、2010年代のようにそれが就職活動の中心的なテーマになっていることはなかった。たとえば、経済学部の学生であれば金融機関を志望するのは当たり前、社会学部の学生であればマスコミや出版社などを目指すのは当然のことである(マンガ『美味しんぼ』の栗田さんの学生時代の専攻は社会学であり、卒業後に東西新聞社へ入社したように)という認識が求人側、求職側の双方にあったのだろう。「やりたいこと」は所属する学部の名前に埋め込まれていたのあって、わざわざそれを提示する必要がそれほどなかった。そうした想定される「標準的」な(?)学部と業種の結び付きから「逸脱」する場合にこそ、「やりたいこと」が問われていた印象である。また、筆者も第3章で就職活動の時代区分を整理している中で説明しているとおり、2000年代に就職情報サービスが一般化する前には、就職協定違反となる非公式の会社セミナーやOB・OG訪問やリクルーター制が活発であった。これも私の経験でしかないものの、「やりたいこと」を自ら説明する必要がなかった理由はOBやOGが私の「人となり」を判断したうえで「マッチング」のための語彙を作ってくれていたためである。つまり、OB・OGが私の拙い志望動機(これは「やりたいこと」のように自己の内面に関するものではなく、たとえば「PlayStationが好きなのでソニーを志望します」「神戸の出身なのでP&Gを志望します」のような単にその企業に関心をもった外形的な理由程度の内容である)を企業内で通じるような語彙に変換していたようにも思われるのである。なお、OB・OG訪問した企業はすべて不採用となったために、この語彙の変換仮説はただの思い付きである。1997年春の就職活動では2月から開始して約100社に挑戦して、6月までに内々定を2社から得るという結果であった。社会学部の学生が就職するような企業については全滅であった。そして、新卒で就職した企業では日本初のインターネット経由での応募しか認めない新卒採用を開始したものの、当時は「そんなことをしたらヘンテコなパソコンオタクしか集まらない」と評価されていた。その後、どの企業でもインターネットを活用するようになった経緯については本書で示されているとおりである。また、2002年夏の就職(転職)活動の際も、「やりたいこと」を尋ねられた記憶はあまりなく、採用されるに至った理由は前職の経験が大きかったはずである。就職氷河期であったものの「やりたいこと」をめぐって自問自答する必要はなかった。こうして私の経験を振り返っただけではあるものの、「やりたいこと」シューカツは必ずしも時代普遍的な現象というわけではない。
 本書について、もう少し考えられそうなことが3点ある。第1に理系についてである。インタビュー調査の対象はほとんどが文系であった。自由応募制、キャリア教育、ライフコースの課題など本書が焦点を絞る論点は文系に限られたものではない。相対的に「やりたいこと」と仕事が結び付きやすいと想定される理系であっても、「労働市場媒介者」を結節点とする自己の再帰的な意味付けが駆動しているかどうか確かめてみたい。工学と理学の違い、医療保健系の特徴など残された課題は多いのだろう。第2に、このブログで何度か言及している「マッチング」の意味についてである。本書では求職側と求人側が1対1の関係を成立させることを「マッチング」とみなしているようである。しかし、就職してからの配属での「マッチング」はどうなっているのか、求人側と求職側のどちらかが不満、あるいは、どちらも不満をもつ場合であっても仕方なく「マッチング」を成立させている場合に既述の「やりたいこと」をめぐる語り/語らせはどうなってしまったのか、筆者も言及するとおり求人側の「マッチング」の論理がまだわからないといった課題があると言えるだろう。第3に高等教育論では、教育機関における知識伝達の課題へ射程が伸びることになるためによく考察の対象となる「学生時代に力を入れたこと」(通称「ガクチカ」)との接続についての考察である。おそらく「やりたいこと」はそれ以外の資源を伴うことで説得力を増すこともあるし減じることもある。それは「キチョハナカンシャ」に続く求人側に対する質問であったり「ガクチカ」であったりする。求人側がとりわけよく聞きたがり、学生がときにキャリアセンターの支援を得ながら準備する「ガクチカ」を「やりたいこと」の関係についてもう少しわかりたいのである。


 

10月1日内定式における翌春就職予定者の拘束

 毎年10月頃、大学教員が企業における内定式に対して不満を表明することがある。(1)まだ働いていない学生を無給で拘束するのはおかしい、(2)授業やゼミ・研究室(卒業論文)を優先するべきである、(3)企業は日頃から大学に対して教育を充実するように要請していることと辻褄が合わない、(4)せめて平日ではなく土曜日、日曜日に開催してほしい、といった主張である。
 そこで、内定式とはそもそも何を意図しているのかに関する研究を探してみることにする。研究検索ウェブサイト CiNii Research を使って「内定式」を探してみると数件しかヒットしない。国会図書館サーチでもあまり変わらない。その中で唯一参考になるのがJIL-PTの記事であった。

小杉礼子、2009、「なぜ内定式は10月1日に多いのか」『日本労働研究雑誌』585、62-65
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/04/pdf/062-065.pdf

新規大卒採用で慣例化しているもののひとつに10月1日の内定式がある。なぜ卒業の半年も前に内定式をするのか。表面的にいえば、企業間の申し合わせ(日本経済団体連合会による「大学卒業予定者・大学院修了予定者等の採用選考に関する企業の倫理憲章」)で、「正式な内定日は10月1日とする」と定めているからといえるが、この倫理憲章に至るまでには紆余曲折がある。それは,採用活動が卒業の1年以上前から始まる現状(大きな問題になっている「内定取り消し」も,採用を卒業直前の時期に行っていたとしたらほとんど起きなかっただろう)の背景ともなっている。採用活動の期日の問題を中心に新規大卒採用の歴史を振り返ってみたい。
(小杉、前掲論文)

大学の卒業前に採用選考が行われるという戦前からの慣行が紹介されたうえで、内定式を10月1日に行う理由として経済団体による倫理憲章(1997年卒以前の「就職協定」)において「正式な内定日は10月1日とする」と定められていることを挙げている。確かにある時期まで、たとえば春先に大学生と企業の役員が応接室で「握手」をしたとしても、それは「内定」ではなく「内々定」であると釘を刺されていたであろう。この論文は新卒採用の歴史をわかりやすくまとめているものの、その説明では10月1日に固執する理由がわかったとは言い難いかもしれない。内定日と内定式の日を同日にする理由にはならないし、このエントリが書かれている時点ではこの倫理憲章は失効している。倫理憲章については次のように説明されている。


内閣官房「就職・採用活動に関する要請」
就職・採用活動に関する要請|内閣官房ホームページ
アカリク「経団連が策定していた倫理憲章とは?就活ルールに関わらず企業が行うべき取り組み」
https://biz.acaric.jp/column/1759/


2018年10月に経済団体が「採用選考に関する指針」を策定しない方針を表明して倫理憲章を作成しなくなってからは、政府によって内定日は10月1日以降にしましょうと要請されるようになっている。要請されているだけなので企業がそれを断ることも可能である。ただし、このようなルールの取り決めが緩やかであり違反した場合の罰則がないということは倫理憲章・就職協定のときも同じであった。たとえば、新興企業、外資系企業、零細企業がこれらを遵守しないことは以前からあった。
 ところで、10月1日に内定式を行うのは企業だけではない。


平成24年10月1日、東京都庁公立大学法人首都大学東京内定式が行われました」
公立大学法人首都大学東京の内定式を行いました。 | 東京都公立大学法人
「 <日時>令和4年10月3日(月)」「福岡労働局は、令和5年4月1日付新規採用予定の方々及び令和4年10月1日付採用の職員に向けた採用内定式を開催しました」
フォトレポート|令和5年度内定式
「10月3日(月)、内定式が行われました。幹部職員同席のもと事務次官及び人事課長から訓辞を行い、内定者は皆、これから文部科学省職員として自らが描いていく日本の未来を思い浮かべながら、真剣な面持ちで傾聴していました」
文部科学省 採用・キャリア情報 - 【活動報告:内定式】...
徳島県庁内定式 90人余の出席者 意気込み語る」
徳島県庁内定式 90人余の出席者 意気込み語る|NHK 徳島県のニュース


平日に開催するために1日ではなく2日や3日とする場合もあるものの、やはり10月の最初の営業日に内定式を行うことには変わりない。一部の大学教員が嫌うようなお金儲けを目的とする組織ではなくても、やはり10月1日に行うのである。
 自治体や公的機関まで10月1日に揃えなければいけない理由は何だろうか。内定式の目的については、たくさんのウェブサイトで紹介されている。その多くがいわゆる「内定者フォロー」と呼ばれる、内々定を得ていた企業等に対する就職への意識を固めるための仕掛けや、事務手続きのためであることを説明する。ここからは「書かれているもの」があまり見つからないため根拠が弱いものの(法的なこと、実務のことなので誤解があるかもしれないし、業種や規模によっても事情は異なるだろう)、その中で最も重要なのは「就職予定者の(物理的な)拘束」である。10月1日の内定式への出席者に対して「内定通知書」を手交することによって、企業等は翌春の就職予定者をある程度確定させる。ある程度、というのは、仮に予定していた採用者の数が足りない場合には秋採用を積極的に行なうためである。そして、それほど多いケースではないものの理由の連絡がなく内定式へ欠席した場合には内定を出す前に再度面接が行われることもある。そのことによって、たとえば翌春就職予定者が3月まで複数の企業等からの内定をもっているという事態を防ぐのである。そして、日本の企業等は一般的に「メンバーシップ型」雇用であるために、この確定した就職予定者を対象にして配属先が検討される。仮に1人の学生が5つの内定を得ていて、就職直前の3月にそのうち4つを辞退される場合、企業等は計画の変更を余儀なくされる(大学教員や学生にとっては「ほんとうにどうでもいい」ことかもしれないものの)。他社と同日の10月1日に拘束を行わず「内定通知書」を郵送するだけではこの「他社に逃げられる問題」を回避できない。また、「内定_法律」で検索するとわかるように、内定は内々定よりも法的な有効性が強いために企業等はその扱いに対して慎重である。このような理由によって10月1日に開催することが重視されているといってよいだろうか(採用現場のご事情に詳しい方による解説がほしい)。
 冒頭の不満は大学側の事情も関連している。企業人には知られていないことかもしれないが、この20年間で大学教育は大きく変容した。1998年に文系学部を卒業した私の事例では、「1997年秋の講義が開始されるのは10月1日であるし、第1回講義はガイダンスなので欠席しても困らない」、「そもそも卒業に必要な単位のほとんどを3年生までに取得している」、「さらにそもそも教員は学生の出席に関心がないし、学生もまた出席するのが通常であるという規範をもっていない」という状況であったが、現代では「秋の講義が開始されるのは9月中旬・下旬であるし、大学によっては『単位制度の実質化』の趣旨に則ってガイダンスを設定しない」、「同じく『単位制度の実質化』によって4年生でも講義を履修する」、「教員は学生の出席を求めるし、学生もまた出席するのが通常であるという規範をもっている」ということもある。そこで、平日の10月1日は、第3回、第4回の授業日であり、半ば「公欠」であるかのように内定式を理由とする欠席についての届けがあると困惑するのである。他方で、一部の企業人はご自身が経験した感覚で大学の講義への出席に対してその価値を低く見積もっているかもしれない。
 冒頭の(1)無給での参加については、仕事をするわけではないので給料を支給できない、(2)授業やゼミ・研究室優先、(3)要請と辻褄が合わない、(4)土日開催の3点については、内定者の確定という課題とのすり合わせが必要であろうか。単純な解決法は学生の在学中の就職活動、採用活動の禁止ということになるのだろうけれども、それはそれで弊害も大きいだろう。また、(3)についてはこのブログで繰り返し述べているように、経済団体の主張、個別企業の経営者の主張、個別企業の採用担当者の主張は必ずしも同じではないし、場合によっては相互に矛盾することもあると理解しておいたほうがよい。大学団体や学術団体、大学の学長や学部長、個別の学者の主張もそれぞれ同じではない。


 

2023年日本教育社会学会研究発表でコメントを頂戴して

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 日本教社会学会第75回大会(弘前大学)において「大卒就職後の自己啓発と社会意識」という研究発表を行った。複数の会員から「調査回答者の学生時代の専門分野による違いはないのか?」という質問を頂戴したため、学会大会終了後に追加分析を実施した。
 回答者の専門分野別人数は、言語・文学203名、哲学24名、歴史学58名、法学81名、政治学38名、経済学77名、経営学53名、社会学102名、社会福祉学21名、心理学71名、その他178名であった。まず、自己啓発の実施有無を従属変数とする分析における当日の報告との違いは、営業・販売職に従事していることが1%水準で有意となった(当初は5%水準で有意)ことだけである。専門分野に関するダミー変数はいずれも有意ではなかった。学生時代の専門分野にかかわらず、「専門分野を超えた幅広い知識やものの見方」を仕事で役立てているという認識と自己啓発の実施は関係していた。次に、社会意識のうち(1)「政治や社会への関心」を従属変数とする分析に関して当日の報告との違いは「実家の本の数」と「奨学金貸与」が5%水準で有意となったことと(当初は1%水準で有意)、政治学が5%水準で正、社会学が1%水準で正、心理学が5%水準で負となったことである。自己啓発の実施は当日報告と同様に関係していた。また(2)「自己責任論」を従属変数とする分析に関する当日の報告との違いは、言語・文学と経済学が5%水準で正となったことである。経営学で正となったり、社会福祉学で負となったりすることはなかった。また、自己啓発の実施は同じく関係していた。これらの傾向は2010年代後半に実施した同種の調査と概ね同様である。

中国のビザを取得してみた

 2023年夏に中国の査証(Lビザ)を取得したときの記録である。ビザの必要の有無、取得方法は必ずしも常に同じというわけではないものの、参考のために公開しておく。

1.オンラインによる「申請表」入力と「申請日時」の予約
 2023年7月下旬、中国ビザ申請センターのウェブサイトで「申請表」を入力する。個人情報の入力や顔写真のアップロードなどを行う。入力するべき項目が多いのでやや大変である。すべてを入力した後で「申請表」をダウンロードしてプリントアウトする。
 次に、中国ビザ申請センターへ訪問して各種書類を提出する申請日時を予約する。東京の場合、予約可能な日程が8月下旬以降であった。そこで、8月最終週のある日の午前9時15分~9時30分の日時を予約した。そして、「査証予約確認票」とメールで送られてきた「Chinese visa application service center appointment information」をプリントアウトする。

2.提出書類の準備
 上記の「申請表」に加えて、次の書類を用意した。(1)航空券(e-チケット)とその領収書、(2)滞在予定のホテルから届いた予約確認のメールとその領収書、(3)中国ビザ申請センターによって大きさと背景の色が指定されている証明写真2枚、(4)現在使っているパスポートとその顔写真ページのコピー、(5)有効期限が過ぎている古いパスポートとその顔写真のページのコピー、(6)さらに古いパスポートすべて、(7)以上すべてのパスポートにおける中国入出国スタンプが押されているページのコピー、(8)1度だけ取得したことのあるLビザ(1990年代中頃に取得、スタンプと責任者のサイン入りのタイプ)のコピー、である。(1)~(8)の書類と、「申請表」「査証予約確認票」「Chinese visa application service center appointment information」を持参することになる。

3.書類の提出
 予約済みの日の午前8時30分に東京ビッグサイト駅に着く。8時35分にはビル12階の中国ビザ申請センターの入口にたどり着いたもの、すでに30人ほどが並んでいる。最後尾に立ったところ、5分ほどして様子がおかしいことに気付く。実はビザ申請の列と、ビザ受取の列の2つが混在していることがわかる。申請の列の最後尾を廊下の先の右側へ曲がった方に見つけて並び直す。そこには先ほどは見えなかった列が存在していて、結局先頭から30人ほどのところで並ぶことになる。前後に並んでいる方の会話から、9時15分~9時30分ではなく9時00分~9時15分の予約を取っている場合もあるらしいことを知る。8時45分頃、ビルの警備員らしい方が列を整理しながら、受取の人を専用の部屋へ案内し始める。9時ちょうど過ぎ、申請のための部屋へ案内される。入口で「Chinese visa application service center appointment information」に記載されている予約日時を確認される。15分早いものの特に咎められることなはい。
 部屋はあたかも中国の鉄道駅の切符売り場のような雰囲気である。まず、事前書類確認を行う列に並ぶ。念のためたくさん持参した書類のうち必要なものを選別してもらう。書類の不備がある場合は、この時点で親切に対応方法を教えてもらえるようである。証明写真の撮影機と1枚20円のコピー機は室内に置かれていて、必要に応じて利用できる。私の場合は不足している書類はなかったものの、余分な書類を返してもらう。そして、受付順番待ちの番号が書かれた紙をもらう。
 椅子に座って順番待ちをする。9時15分、モニターに自分の番号が掲示されたので、指定の窓口へ向かう。この窓口で書類の提出と、あらためて顔写真の撮影を行う。なお、半月前に指紋の登録は免除になっていたため行われていない。書類の中でも、特に航空券とホテルの予約確認メールに記載されている日程や氏名については何度も確認を行っているようである。なお、先ほどの事前書類確認と合わせて、(1)(2)の領収書、(3)の証明写真1枚、(6)のすべて、(7)直近のスタンプ以外のすべてのスタンプが押されているページのコピー、(8)は不要であるために返却された。9時25分、書類の確認が終わって受理されるとともに、「請求書」という記載のあるビザを受領するための紙をもらう。申請日から3日後の朝9時には受け取ることが可能であると説明される。すべての手続きを終えて、9時35分頃には東京ビッグサイト駅に戻ることになる。所要約1時間であった。

4.ビザの受け取り
 用事があったため、ビザの受け取りは申請日の6日後とした。10時10分に東京ビッグサイト駅に着き、先日と同じ事務所へ赴く。申請を行う部屋の入口にいる警備員に声をかけて、「請求書」を見せながら受け取りに来た旨を告げる。以前と同じく部屋は賑わっていて、書類の不備を指摘されたらしい数名の申請者が証明写真の撮影機やコピー機の前で並んでいる。
 警備員から整理券をもらって、受け取り専用の比較的小さな部屋へ行く。部屋の中の窓口では、大量のパスポートをやり取りしている代行業者が2人いて、時間がかかることを覚悟する。しかしながら、10時20分には自分の番号が呼ばれる。「請求書」を提出し現金で8,500円を払って、預けていたパスポート二つ(上記の(4)と(5))を返却してもらう。シールタイプのビサが貼られていることを確認してあっけなく終了した。釣り銭が不足していることを予想していたので、持参した500円玉が活躍した。


こちらはビザの写真の一部。