2023年度前期教養教育科目「若者と社会」アンケート自由記述

 2022年度前期教養教育科目「若者と社会」において、全15回の講義終了後に本講義独自のポートフォリオの提出と合わせてアンケートへの回答をお願いしました。約120名の履修者のうちおよそ30名から回答を頂きました。来年度以降の皆さんの後輩のために、今後のシラバスへも掲載する予定です。

昨年2022年度はこちら
sakuranomori.hatenablog.com

講義全体の感想

  • 関心を持って授業を受けることができた。この授業を受けたことで、社会学に少し興味を持った。毎週レポートを書くことは大変だったが、とても自分のためになったと感じている。
  • 講義の内容すべてが身近な話題であったが、講義を受けるまで意識したことがないものが多かった。Activityで他人の視点、意見を知ることがことができて新たな発見が多い講義で楽しかった。
  • 興味深い内容ばかりでレポートを作成も思っていたよりはきつく感じなかったです。
  • 自分が普段接していても考えないことを深掘りしているような講義内容でとても楽しかった。
  • 先生の自虐ネタが毎回面白かったです。
  • あまり考えたことのない内容が多かったので、新たな発見をすることが多かったです。
  • 自分自身で考えながら講義を受けることができおもしろかったです。
  • 講義が身近な話題なので面白く、講義に退屈さを感じなかった。
  • 身近なテーマが多く楽しかった。
  • 過去と現在の若者を比較した時にどのような共通点、相違点があるのか、また、私たち自身に大きく関わってくる若者のことを専門用語と共に学ぶことができて興味深かった。
  • 普通の人間生活を送っていたら思いもしなかった素朴な疑問が投げかけられ、その疑問を解消する過程が楽しかった。後半になるにつれて講義の話題の規模が大きくなり、授業内容も予習論文も難しくなっていったが、最後まで疑問を感じることを忘れずに内容と向き合うことができた。二宮先生の授業内での反応、コメントの一つ一つが面白かった。
  • レポートとして考察を重ねることで理解をふかめることができた。
  • 講義は、先生のぶっちゃけトークが面白かったです。毎週のレポート課題は大変ですが、レポートを書く力が身につきました。また、大学での講義受講についてのコツも学ぶことができます。
  • 自分たちの身近な問題を言語化されて、わかりやすい 言われてみればそうだな、というような内容であり面白い
  • 基本的には受け身になって授業を受けるが、若者についてアクティビティなどで書き込めるから授業に参加している感じがあり、とても楽しい授業だった。
  • 身近なものについて学ぶことができたので社会の役に立つとおもった
  • 身近なテーマについて考える内容の講義だったので考えやすく、興味深かった。
  • レポートを毎回提出するのが大変だった。
  • 講義は難しいものではあったが、私たち若者にどのような傾向があるのかを学ぶことができて良かったと思う。また、当たり前のことを「本当にこれは正しいのか?」という疑問を持つようになった。社会が全て正しいことをしているわけではないと、感じることができる講義であった。
  • 講義の内容は難しいが、面白い。レポートの書き方を身に着けられるので良い。
  • 難しいけど面白い。レポートは考察が難しい。
  • 身近な題材について若者という視点から考えたことはとても面白かった。今までは気にかけなかったことが、若者と社会の講義を通して、まったく新しいもののように感じられた。自分の視野を広げるという意味でこの講義を受けるべきだと思う。
  • 興味深い講義が多く、大変ためになった。
  • 毎週のレポートは少し大変でしたが、この講義を通して仲良くなれた人がいたり、適切なレポートの書き方を学べたり、とても大きなものを得ることができました。
  • 若者のこと授業で行っているのに、俯瞰した目線で授業の内容を受けていたので自分のことのようで他人ごとのような不思議な感覚で授業を受けていました。全授業を通して、つながりを持っていて、毎週の文献と次の授業を照らしながら聞くことができ、毎週楽しみながら、授業を受けることができた。ありがとうございました。
  • 今まで当たり前に流されていたことを実感することができた。なんとなくふしぎに思っていたことが、先生からの講義と自分の考察を通してどうしてそうなのか知ることができた。
  • レポートを書くのに時間がかかって大変だったけれど、授業の内容がとても面白かったです。普段自分では考えないことを授業を通して詳しく考えることが出来るので良い機会になりました。
  • 講義の題に対して自分の意見を考えることができて非常に楽しかった。ほかの人の意見も行くことができたため視野を広げることができた。大学生は全部がキラキラしてるわけじゃないと痛感しました。
  • 若者についての理解を深めることができた。いろいろな見方があると感じた。レポートにまとめることが難しいと感じた。講義はおもしろかった。15回の講義をありがとうございました。
  • 身近なものが題材となっていることが多かったので、非常に楽しく講義を受けることができました。

この講義を受けるコツ

  • 授業中にタイトル、フィードバックに対するリプライなど、書けるところは書いておく。また、考察は先生がポロっと口に出した疑問などの投げかけについて書くと、考察のネタを考える時間を省くことができる。
  • 時間に余裕をもってレポートを提出すること。考察やフィードバックは何を書けばよいかわからないことがあるが、講義中に先生がヒントをくれることがある。また、出席確認用の紙を毎時間書くが、この時に質問してみてもヒントを出してもらえる。
  • 先生が言っていることをメモすることが大事。
  • 継続できる力が大切だと思った。毎週課題が出るので、それを面倒くさいと思わずに毎回しっかりやることが大事。
  • レポートの先生からのリプライへのコメントは絶対書き忘れない。
  • レポートは大変ですが、講義は興味を持つものが多かったです。先生が「なんでだろうね」など言っていたことはメモをしておくとレポートの考察が書きやすいです。
  • レポート提出の為に常にノートをとることを意識する
  • 先入観にとらわれない。
  • 毎週レポートを書くのは大変だけど、この授業のおかげで他の授業のレポートが書きやすくなったのでおすすめです!
  • 講義の冒頭で先生がおっしゃっていることではあるが、中身のあるレポートを書くためには、授業後にLMS上の授業スライドを見るだけでなく、講義の内容のメモを取る必要があると感じた。
  • 授業中に先生がつぶやいた問いかけをメモして、授業後のレポートの考察のネタにするのがおすすめです。 授業内だけで完結させるのではなく、授業を受ける前に感じていたことや自身の経験、後半の講義では前半の講義との関わりを見つけると楽しいと思います。
  • まずは先生のスライドをよく見てレポートはその日のうちに片付けること。
  • レポートは提出ギリギリではなく、早めに取り掛かり、文章の再考や誤字脱字のチェック、校閲の時間を確保するべきです。 先生の言動や講義のいろいろなところに大学で講義を受けるうえでのヒントが散らばっているので、注意して考えると自分のためになります。
  • 講義の中でひとつ気になったことを考察するとわかりやすい
  • 授業の要点を抑えながらメモを取ると良い。スムーズにレポートを書くことができる。
  • とりあえず考察する
  • 毎回のレポートがあるため、大変だと感じる面もあるが、講義を受けながらメモをしておくと良い。
  • レポートは講義時間ぎりぎりまで残さないこと。夏休みの宿題を最終日まで残すタイプの人は受けないほうがいいと思笑笑
  • 毎回のレポートは大変ですが、毎回先生がレポートにリプライをしてくれるので、そのポイントをしっかり身に着けることが重要です。大変さもそのうち慣れてきます!若者と社会を履修したおかげで他の講義のレポートでも書けるようになったから、続けることが大切だと思います。
  • 講義中にメモを取る。考察できそうなポイントを見つけながら講義を聞く。
  • とにかくメモを取る。考察を書くときは何かしらの問題提起や疑問を出して、講義内容や簡単なニュース内容、一般論など絡めつつ自分なりに結論を出すと満点が取りやすい。
  • メモを取りながら講義を受ける
  • 授業の日にある程度レポートを終わらせる
  • 授業中に課題を終わらせよう!
  • 毎回レポートを作成しなくてはいけないがテストがないため、比較的楽な授業である。
  • 毎週のレポートをきちんとこなす(すべてのスタンプにリプライをする、適切なバランスで各項目を記入する等のことをしっかりとやる)ことが大切だと思います。なぜなら、この授業はレポートの点数がそのまま自分の成績に反映されるからです。
  • 授業の内容を予習文献と照らし合わせながら受けることで楽しさが増します。
  • 最初は考察やレポートに不慣れで苦痛かもしれないが、ぜひ最後まで受けてほしい。講義中に先生が投げかける疑問は考察する際に使いやすいのでメモをしておくとよい。
  • 授業中にレポートを書く時間があるので、その時間である程度終わらせるとあとが楽です。
  • レポートを出し続けられれば大丈夫です。
  • レポートの講義の要約と考察は、講義中に書くようにしましょう。時間が経ってしまうと、思い出すことが難しくなってしまいます。レポート提出を忘れてしまうと、5点以上失ってしまうので、早めに、忘れないうちに提出した方が良いと思います。
  • 毎回提出するレポートは少し大変な部分もあるが、毎回提出を忘れないようにすることが大切だと思う。テストがないのはとてもありがたい。

マジックワードとしての主体性

 本書の問題意識は冒頭の「はしがき」で次のように述べられている。

 しかしながら、社会には〈主体性〉を求める言説が満ち溢れている。〈主体性〉という言葉の意味は曖昧にされたまま、学校教育においては〈主体性〉の育成がうたわれ、企業は〈主体性〉のある人材の輩出を大学等に求めている。そんなことを考えていたときに、企業は学生の〈主体性〉不足を指摘するが、学生自身は〈主体性〉不足を感じていないという企業と学生の認識ギャップを示す経済産業省の調査結果を見た。そして、大学教育などで育成しようとする〈主体性〉と、企業が求める〈主体性〉には違いがあるのではないか、という基本的な疑問が生まれた。企業と大学の間で、〈主体性〉の意味のズレを内包したまま、産業界から大学教育等に対して〈主体性〉の育成要求がなされているのではないか、と考えるようになった。
 そののちに、〈主体性〉に関するいくつかのデータを試行的に分析した結果、企業・経済団体に焦点化して分析を行うことにした。企業が求める〈主体性〉を明らかにすることで、産業界の人材育成要求に対峙しながら、学生の〈主体性〉育成について考えるための示唆が得られるものと考えたためである。
(はしがきより)

学生・若者が求められることはおそらくたくさんあるものの、その中でもよく見かけられる〈主体性〉に着目して分析を行うというものである。特に本書の特徴は、分析対象を経済団体、企業採用部門、企業事業部門の3つに区分したうえで、それぞれが主張する〈主体性〉の内容を理解しようとすることである。私(二宮)は日本公共政策学会2005年度研究大会において産業界による意思表明をマクロレベル(資本主義体制のレベル)、メゾレベル(財界のレベル)、ミクロレベル(個別企業のレベル)に区分して分析する必要があると言及した。それは理念的な発表でしかなかったものの、こうした分析の編み目を細かくする作業が必要であると認識している。
 全体を通じて私にとっては関心の近いテーマであり大変勉強になった。読み進めながら考えを深めてみたかったテーマを列記してみる。第1に、教育学(教育社会学ではない)に対する本書の貢献についてである。もちろん、教育学を射程に入れた研究ではないと主張することも可能である。しかし、紙幅の制約のためか本書ではおよそ2000年以降の教育社会学、社会政策、経営学、産業組織論の先行研究に焦点を絞って検討が行われているものの、それ以前には教育学の分野において企業の要望に対する分析が行われてきた。その際の観点の多くは上記の私の分類でいえばマクロ~メゾであり、問題意識は「教育は資本の従属物ではない」、「発達の概念を欠いた教育論でしかない」、「職業に関する教育はほぼ形骸化・縮小化する」、「目指すべき民主的な価値観と共存できない」といった大所高所の批判的なものである。教育学にとっても〈主体性〉は行政用語にもなっている鵺のような存在であるからこそその意味を理解したいはずであり、〈主体性〉を教育機関の外部から求められる場合においてその根拠を強く求めるのである。たとえば「従業員が入社前までに〈主体性〉を獲得するようになれば、個別企業の年商が倍増する」と言われたとしても、おそらく教育学ではそのことは教育、少なくとも公教育において優先するべき課題ではないとみなすだろう。そうした関心をもつ教育学に対して応答する手がかりを掴むことは容易ではないものの、本書が教育〈界〉を分析の範囲に含めようとするならば公教育や発達論などに関連した考察を深める必要もあるのかもしれない。
 第2に、データ分析の対象となっている経済団体の提言に関することである。私は勉強不足ゆえに、現在の経団連イデオロギーが理解できていない。かつては、その前身である日経連と旧・経団連とでは重視する価値観が異なっていて、前者の日経連のほうがより復古的かつ攻撃的であった。たとえば、上下関係や愛国心を強調する提言を行いつつ労働者による運動を厳しく抑圧するのは日経連であった。また、同友会はその設立当初は修正資本主義を主張したり、その後も比較的リベラルな提言を行うなど日経連、旧・経団連とはかなり異なる志向をもっていた。私は本書の理解を進めるために、日経連と旧・経団連との統合以降の、経済団体の現代的な動向について勉強しなければならないのである。そのうえで、もしかしたら高等教育論で研究されていたかもしれないけれども財界文書の作成過程や文章とイデオロギーとの関係が気になるのである。50~60年代前後の日経連の場合、経営者でもあり保守派の論客でもあるような人物がほぼ一人で教育についての提言を書き上げていたこともあり、それゆえに日経連による主張というよりは当該論客による主張と捉えたほうがよい場合もあった。経済団体の提言について、それをほんとうに財界の意思とみなしてよいのか慎重に考えてみたいのである。
 第3に、各種データの信ぴょう性についてである。これは筆者が責を負う問題ではけっしてない。大学内外の関係者にお話しを伺う場合に「実はあまり考えていたわけではなくて」、「前例を踏襲しただけして」という趣旨に聞こえるようなお声を頂くことがある。私は2016年の大学教育学会第38回大会で「就職四季報」の分析について発表したことがあるものの、そこに掲載されている求める学生像はあまり練られたものではないという前提を置いていた。〈主体性〉は何を意味するのかわからないこそ、また、自主性、自発性、自立性、自律性…などと大まかかつ曖昧に交換可能であるからこそ、すなわち中身がないからこそ普及したものであると認識していた。コミュニケーション能力も同様である。この問題については、本書では企業事業部門を対象とする聞き取り調査の結果を分析することで解決しているともいえる。実はこの事業部門に対する着目こそが、高等教育研究の文脈ではおもしろいところである。日本の雇用・採用慣行上、従来の研究では企業本社の人事部門を調査することが多かったためそうではない営業や製造などの「現場」の意見を聴くことは重要である。
 第4に、翻って経営学や産業組織論を基盤とした大学教育実践に関してである。第4章「企業はどのようにして〈主体性〉を評価・育成しているのか」において、現在のマネージャー層は若い頃のOJTや自らの創意工夫により〈主体性〉を身につけた一方で、現在のプレーヤー層はマネージャー層からのサポートによってそれを育成されているとまとめられている。聞き取り調査の分析によるものでなので、このことが事実かどうかは確定できないものの、ひとまずはそのような認識があるということは理解できる。しかし、そうであるとするならば、現代の大学改革の一部によって進められている大学生のリーダーシップ開発のような〈主体性〉の涵養は不要であり、従来の「大学では遊んでおいてね、入社後にOJTで鍛えるから大丈夫」論で十分であろう。とはいえ、たとえば大学発のリーダーシップ開発(日向野幹也編著、2022、ミネルヴァ書房)で紹介されている、私にとっては優れた実践にみえる大学教育も行われていることであり、そうした教育と入社後の上長によるサポートを受けながらの〈主体性〉の育成との関係はどのような特徴をもっているのか、よく知りたいところである。
 このブログでは繰り返し提起している課題であるものの、教育機関や職場において半ば強制されるかたちでありながらも〈主体性〉が身に付くというのは人の営みのパラドクスとして興味深いものである。命じられることによって命じられないでもどうにかなる主体に育つという、大掛かりなプロジェクトが続いているのである。

大学FD講習会2023夏 教育の内部質保証-初級編-


 非常勤講師の皆さま、事務職員の皆さま、大学院生の皆さまなどを対象とするFD(ファカルティ・ディベロップメント)講習会を開催いたします。全国の教育機関やそれに類する機関にご所属なさっている方であれば、どなたでも参加いただけます。内容は群馬大学において教員向けに実施しているFD講習会とほぼ同様のものになります。参加を希望なさる方は下記の申し込みフォームをご利用ください。

大学FD講習会 2023夏 教育の内部質保証 -初級編-
【日時】2023年8月7日(月)19:30-20:30
【会場】オンライン(Zoom)

☆参加申し込みフォーム☆
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☆大学FD講習会2023夏についてのその他のお問い合わせはこちらから☆
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伝統校の「自治」について考えてみる

 執筆者の皆さまからお送り頂きました。ありがとうございます。

 明治時代から続いている高等学校(高校)の「自治」について検討する意欲的な研究である。教育社会学において高校の研究は花形の一つである。「そこでは、「選抜・配分機能」と「生徒下位文化の社会化機能」が主な関心事であり(岩木・耳塚 1983)、そうした高校教育システムの機能を読み解く装置・概念である「トラッキング」(藤田 1980)を中心に据えて、理論的・実証的研究が蓄積されてきたのであった」(荒牧草平・香川 めい・内田康弘、2019、「高校教育研究の展開―学校格差構造から多様なリアリティへ―」『教育社会学研究』105)とも評価されている。高等教育研究(大学研究)の立場からしても、まず、制度の立ち上がりが比較的早かった小中学校と大学があり、その間をつなぐ役割があったものの様々な事情により紆余曲折した経緯を辿った高校があるといった歴史的な関心として、次に、義務教育と高等教育とのアーティキュレーションの現代的な機能についての関心として、高校研究は極めて重要である。教育社会学の中でも、本書は学校文化論によるアプローチが適切なテーマを提供している。学校文化論とは家庭や職場とは異なる独自の文化を学校がもつことに対して着目するものである。学校文化は同世代の若者が集まることによる生徒文化、職能に関わる教師文化(教員文化)などに切り分けて考えられることもある。たとえば、かつてのテレビドラマ「金八先生」は「荒れた(何事にも競争的な風潮によって荒れざるをえない)」生徒文化や、それをめぐって対抗するか包摂するかで対立する教師文化を描いたものである。
 私(二宮)は同様の地方公立高校の出身である。今から思い出してみれば教師集団から「選良意識」をくすぐるような言動がなされることがあった。それは、たとえば校則がないこと、実は一つだけ校則はあるのだけれどもそれは「我々は服装の自由選択権を有する」という一文であることに関して高校のもつ長い伝統、外部社会からの信頼、大学紛争の高校への余波などが理由として挙げられたり、その外部社会からの信頼を担保するものとして大企業の経営者、映画評論家やライターのような文化人、地元政財界の有名人である「先輩」の名前が持ち出されたりする。一方でそんな偉い人のことなんか知らんわ関係ないしアホらしと思いつつ、他方同時に悪い気はあまりしないのである。実際のところ、お金のかかる私服ではなく「標準服」を着て通学する生徒が多いものの、それでも「標準服」の着崩しの程度の大きさや週1日程度は着用する私服姿は、朝夕の通勤通学の時間帯における電車内でとても目立つのである。こうしたくすぐりは中学生の頃から始まっていて、理科の授業で水溶液の酸性・アルカリ性について言及されるときの高校の名称に絡めた決め言葉があったことは、おそらく以前このブログで紹介したとおりである。ともあれ、私は学校文化論に詳しくはなく、本書で対象となっている長野県についてもよくわかっていない。長野県は「教育県」として有名であること、長野県立松本深志高等学校という表記は誤りで正しくは長野県松本深志高等学校であることくらいしか理解できていない。そこで、私が本書を理解するうえで強力な手掛かりになったのが第Ⅱ部6章「とんぼ祭への視覚―初年次教育論から」である。

 深志の自由と自治、そして、とんぼ祭を通して、深志高校の教育実践を理解するには、アメリカの大学における、初年次教育の文脈が適しているように思われた。特に「自由の扱い方(managing freedom)」を学ぶのは、大学の初年次における重要な課題の一つである。初年次教育の究極の目的は、学生を「自立した個人」に教育することであり、「自立した個人」として大学で生活し学び、卒業後の人生の準備をすることが強く意識されている。そこで教師は、学生を大人として扱い、学生自らが決断し、行動し、結果を受け入れ、責任を取る練習をさせる。その一連のプロセスに、寄り添うのである。
 初年次教育は、「高校から大学への円滑な移行」として定義される。日本では、それが、友達づくり支援や、学び方の転換支援、といった狭義の教育実践として導入された。アメリカの大学で初年次教育が行っているのは、ズバリ「自立・自律支援」である。そのために、学生が自立せざるを得ない環境をつくって、学生に自立を強いるのだ。
 アメリカの大学では、1年生全員に寮生活を送らせるところが多い。学生を親元から引き離し、キャンパスに閉じ込めるためである。それは、生まれ育った地域や宗教など、これまで学生がなじんできた価値体系(=伝統社会)から、多様な価値観を認め合うリベラル社会へと移行させることを意味する。週末に学生を実家に帰させないにはどうするか、教員会議では真剣に議論する(略)リベラルな大学から自分の狭い世界に逃げ込んで、両親のつくった料理を食べて週末をぬくぬくと過ごす、といったことを全力で阻止するのだ。
 例えば、筆者が勤務していたアパラチアン州立大学は南部のノースカロライナ州にあり、キリスト教以外の宗教や進化論を教える際には、今でも炎上を覚悟する必要がある。人種や宗教、性的志向が異なる人々と日夜の生活を共にすることに困難を覚える学生も少なからずおり、それを理由に退学する学生も少なくない。8月末に大学に入学してから、11月末の感謝祭休暇が(理想的には)初めて学生が里帰りする機会になるのだが、学生はその時、親や伝統社会とは自分の考え方や目指すべき生き方がすでに異なってしまった、という事実を突き付けられる。大学に適応した学生は、自分にはもう帰る場所がないことを悟るようになるのだ。
pp. 186-187

 入学当初はホームシックになり、1カ月後には最初の試験があって、生まれて初めて成績に「C」をつけられてショックを受ける。試験が終わると歴史学や生物で進化論の授業があり、文学では同性愛文学が課されて、議論をしなくてはならない。比較文化論や人類学などで、自分とは別の宗教の教師や学生を見つけてインタビューしてこいといった宿題が出されることも。アメリカ南部で、福音派の敬虔な信者として育った学生の中には、ユダヤ教イスラム教、仏教などの他宗教はおろか、キリスト教でも他宗派の信者と会ったことのない学生が多くいます。聖書と異なる説明(人間は、神が自分の姿に似せてつくったのではなく、サルから進化した)を受け入れることは、教会や家族、友人を裏切ることでもあり、自分は地獄に落ちるのではないかと悶々と悩むのです。
pp. 258-259

 筆者は深志の自治はこの米国の初年次教育に通じるものがあるという。困難な通過儀礼を経験することによって自立を成し遂げ、生徒とその親との関係性を組み替えるという点が共通しているのである。この観点は深志のみならず、「自由な校風」の学校文化を理解するうえで有益であろう。過去の自分を捨てて新しい自分に自ら生まれ変わることを促されるのである。上記の引用文中の「学生に自立を強いる」というのは、学校のもつパラドキシカルな役割でもある。「自立せよという強制」は一般社会ではおかしなことと思われるものの、学校では特に不思議ではない。ただし、もちろん筆者も指摘する通り深志に寮はないので米国の大学での初年次教育そのものではない。また、私からすると高校での実践は政治、宗教、イデオロギーといった個人のアイデンティティに深く関わることがらを手際よく排除しているようにもみえてしまい、自治は括弧つきの「自治」と表記したほうがよいのかもしれない。
 教育社会学の観点に戻ると、深志の実践にしても米国の初年次教育にしても、それを生徒、学生が受け入れることを可能にする資源とはどのようなものであるのかについて、もう少し理解を深めたかった。現代的な言葉を使うと「自治は効率、コストパフォーマンスが悪く無駄である」ので、そんなことは止めて受験指導一択にしてほしいという生徒はいないだろうか。何をしてもいいですよ、自由ですよと言われて戸惑う生徒はいるかどうか。大学における初年次教育においても狭義の言葉で学習観の転換と言われてきたような、何かあらかじめ定まった正解を探すのではなく(当然、教師が隠し持っている正解を当てるゲームの遂行ではなく)、自ら正解らしきものを編み出してみようという大きな課題に対して躓きを覚える学生もいる。話題を拡げてみると「自由な学校における教育実践」についての研究蓄積は実のところ多数あるはずで、だからこそそれを受容する生徒、学生の特長について研究を進展できそうである。このことは他の章で言及されている、入学試験や、知識よりも思考や表現を重視する地元の実験学校である国立附属校出身者の論点と重なるものでもある。

群大ビブリオバトル2023年6月

sakuranomori.hatenablog.com
 群馬大学教養教育科目「若者と社会」では、毎年「知的書評合戦ビブリオバトル」を実施しています。学部・学科の枠を超えて、(学生によっては)男女別学であった高校時代のコミュニケーションの方法をいったん忘れてグループ作業を行う練習をするという目的も兼ねています。今年のルールは若者に関連する書籍であればコミックやライトノベルなどの分野も認めています。
 この講義では毎週レポートを提出する必要があります。レポートの内容は(1)講義の要約、(2)講義に対する考察、(3)予習論文に対する考察、(4)教員から返却されたフィードバックに対するリプライ、の4点です。以下、提出されたレポートで結果が報告されたチャンプ本です。

『絶望の中に生きる子どもたち』(書誌情報不明)


なお、レポートなどで書誌情報を正確に記述できるようになると、こうした場で丁寧に紹介できます。レポートの字数も「稼ぐ」ことができますね。