伝統校の「自治」について考えてみる

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 明治時代から続いている高等学校(高校)の「自治」について検討する意欲的な研究である。教育社会学において高校の研究は花形の一つである。「そこでは、「選抜・配分機能」と「生徒下位文化の社会化機能」が主な関心事であり(岩木・耳塚 1983)、そうした高校教育システムの機能を読み解く装置・概念である「トラッキング」(藤田 1980)を中心に据えて、理論的・実証的研究が蓄積されてきたのであった」(荒牧草平・香川 めい・内田康弘、2019、「高校教育研究の展開―学校格差構造から多様なリアリティへ―」『教育社会学研究』105)とも評価されている。高等教育研究(大学研究)の立場からしても、まず、制度の立ち上がりが比較的早かった小中学校と大学があり、その間をつなぐ役割があったものの様々な事情により紆余曲折した経緯を辿った高校があるといった歴史的な関心として、次に、義務教育と高等教育とのアーティキュレーションの現代的な機能についての関心として、高校研究は極めて重要である。教育社会学の中でも、本書は学校文化論によるアプローチが適切なテーマを提供している。学校文化論とは家庭や職場とは異なる独自の文化を学校がもつことに対して着目するものである。学校文化は同世代の若者が集まることによる生徒文化、職能に関わる教師文化(教員文化)などに切り分けて考えられることもある。たとえば、かつてのテレビドラマ「金八先生」は「荒れた(何事にも競争的な風潮によって荒れざるをえない)」生徒文化や、それをめぐって対抗するか包摂するかで対立する教師文化を描いたものである。
 私(二宮)は同様の地方公立高校の出身である。今から思い出してみれば教師集団から「選良意識」をくすぐるような言動がなされることがあった。それは、たとえば校則がないこと、実は一つだけ校則はあるのだけれどもそれは「我々は服装の自由選択権を有する」という一文であることに関して高校のもつ長い伝統、外部社会からの信頼、大学紛争の高校への余波などが理由として挙げられたり、その外部社会からの信頼を担保するものとして大企業の経営者、映画評論家やライターのような文化人、地元政財界の有名人である「先輩」の名前が持ち出されたりする。一方でそんな偉い人のことなんか知らんわ関係ないしアホらしと思いつつ、他方同時に悪い気はあまりしないのである。実際のところ、お金のかかる私服ではなく「標準服」を着て通学する生徒が多いものの、それでも「標準服」の着崩しの程度の大きさや週1日程度は着用する私服姿は、朝夕の通勤通学の時間帯における電車内でとても目立つのである。こうしたくすぐりは中学生の頃から始まっていて、理科の授業で水溶液の酸性・アルカリ性について言及されるときの高校の名称に絡めた決め言葉があったことは、おそらく以前このブログで紹介したとおりである。ともあれ、私は学校文化論に詳しくはなく、本書で対象となっている長野県についてもよくわかっていない。長野県は「教育県」として有名であること、長野県立松本深志高等学校という表記は誤りで正しくは長野県松本深志高等学校であることくらいしか理解できていない。そこで、私が本書を理解するうえで強力な手掛かりになったのが第Ⅱ部6章「とんぼ祭への視覚―初年次教育論から」である。

 深志の自由と自治、そして、とんぼ祭を通して、深志高校の教育実践を理解するには、アメリカの大学における、初年次教育の文脈が適しているように思われた。特に「自由の扱い方(managing freedom)」を学ぶのは、大学の初年次における重要な課題の一つである。初年次教育の究極の目的は、学生を「自立した個人」に教育することであり、「自立した個人」として大学で生活し学び、卒業後の人生の準備をすることが強く意識されている。そこで教師は、学生を大人として扱い、学生自らが決断し、行動し、結果を受け入れ、責任を取る練習をさせる。その一連のプロセスに、寄り添うのである。
 初年次教育は、「高校から大学への円滑な移行」として定義される。日本では、それが、友達づくり支援や、学び方の転換支援、といった狭義の教育実践として導入された。アメリカの大学で初年次教育が行っているのは、ズバリ「自立・自律支援」である。そのために、学生が自立せざるを得ない環境をつくって、学生に自立を強いるのだ。
 アメリカの大学では、1年生全員に寮生活を送らせるところが多い。学生を親元から引き離し、キャンパスに閉じ込めるためである。それは、生まれ育った地域や宗教など、これまで学生がなじんできた価値体系(=伝統社会)から、多様な価値観を認め合うリベラル社会へと移行させることを意味する。週末に学生を実家に帰させないにはどうするか、教員会議では真剣に議論する(略)リベラルな大学から自分の狭い世界に逃げ込んで、両親のつくった料理を食べて週末をぬくぬくと過ごす、といったことを全力で阻止するのだ。
 例えば、筆者が勤務していたアパラチアン州立大学は南部のノースカロライナ州にあり、キリスト教以外の宗教や進化論を教える際には、今でも炎上を覚悟する必要がある。人種や宗教、性的志向が異なる人々と日夜の生活を共にすることに困難を覚える学生も少なからずおり、それを理由に退学する学生も少なくない。8月末に大学に入学してから、11月末の感謝祭休暇が(理想的には)初めて学生が里帰りする機会になるのだが、学生はその時、親や伝統社会とは自分の考え方や目指すべき生き方がすでに異なってしまった、という事実を突き付けられる。大学に適応した学生は、自分にはもう帰る場所がないことを悟るようになるのだ。
pp. 186-187

 入学当初はホームシックになり、1カ月後には最初の試験があって、生まれて初めて成績に「C」をつけられてショックを受ける。試験が終わると歴史学や生物で進化論の授業があり、文学では同性愛文学が課されて、議論をしなくてはならない。比較文化論や人類学などで、自分とは別の宗教の教師や学生を見つけてインタビューしてこいといった宿題が出されることも。アメリカ南部で、福音派の敬虔な信者として育った学生の中には、ユダヤ教イスラム教、仏教などの他宗教はおろか、キリスト教でも他宗派の信者と会ったことのない学生が多くいます。聖書と異なる説明(人間は、神が自分の姿に似せてつくったのではなく、サルから進化した)を受け入れることは、教会や家族、友人を裏切ることでもあり、自分は地獄に落ちるのではないかと悶々と悩むのです。
pp. 258-259

 筆者は深志の自治はこの米国の初年次教育に通じるものがあるという。困難な通過儀礼を経験することによって自立を成し遂げ、生徒とその親との関係性を組み替えるという点が共通しているのである。この観点は深志のみならず、「自由な校風」の学校文化を理解するうえで有益であろう。過去の自分を捨てて新しい自分に自ら生まれ変わることを促されるのである。上記の引用文中の「学生に自立を強いる」というのは、学校のもつパラドキシカルな役割でもある。「自立せよという強制」は一般社会ではおかしなことと思われるものの、学校では特に不思議ではない。ただし、もちろん筆者も指摘する通り深志に寮はないので米国の大学での初年次教育そのものではない。また、私からすると高校での実践は政治、宗教、イデオロギーといった個人のアイデンティティに深く関わることがらを手際よく排除しているようにもみえてしまい、自治は括弧つきの「自治」と表記したほうがよいのかもしれない。
 教育社会学の観点に戻ると、深志の実践にしても米国の初年次教育にしても、それを生徒、学生が受け入れることを可能にする資源とはどのようなものであるのかについて、もう少し理解を深めたかった。現代的な言葉を使うと「自治は効率、コストパフォーマンスが悪く無駄である」ので、そんなことは止めて受験指導一択にしてほしいという生徒はいないだろうか。何をしてもいいですよ、自由ですよと言われて戸惑う生徒はいるかどうか。大学における初年次教育においても狭義の言葉で学習観の転換と言われてきたような、何かあらかじめ定まった正解を探すのではなく(当然、教師が隠し持っている正解を当てるゲームの遂行ではなく)、自ら正解らしきものを編み出してみようという大きな課題に対して躓きを覚える学生もいる。話題を拡げてみると「自由な学校における教育実践」についての研究蓄積は実のところ多数あるはずで、だからこそそれを受容する生徒、学生の特長について研究を進展できそうである。このことは他の章で言及されている、入学試験や、知識よりも思考や表現を重視する地元の実験学校である国立附属校出身者の論点と重なるものでもある。