マジックワードとしての主体性

 本書の問題意識は冒頭の「はしがき」で次のように述べられている。

 しかしながら、社会には〈主体性〉を求める言説が満ち溢れている。〈主体性〉という言葉の意味は曖昧にされたまま、学校教育においては〈主体性〉の育成がうたわれ、企業は〈主体性〉のある人材の輩出を大学等に求めている。そんなことを考えていたときに、企業は学生の〈主体性〉不足を指摘するが、学生自身は〈主体性〉不足を感じていないという企業と学生の認識ギャップを示す経済産業省の調査結果を見た。そして、大学教育などで育成しようとする〈主体性〉と、企業が求める〈主体性〉には違いがあるのではないか、という基本的な疑問が生まれた。企業と大学の間で、〈主体性〉の意味のズレを内包したまま、産業界から大学教育等に対して〈主体性〉の育成要求がなされているのではないか、と考えるようになった。
 そののちに、〈主体性〉に関するいくつかのデータを試行的に分析した結果、企業・経済団体に焦点化して分析を行うことにした。企業が求める〈主体性〉を明らかにすることで、産業界の人材育成要求に対峙しながら、学生の〈主体性〉育成について考えるための示唆が得られるものと考えたためである。
(はしがきより)

学生・若者が求められることはおそらくたくさんあるものの、その中でもよく見かけられる〈主体性〉に着目して分析を行うというものである。特に本書の特徴は、分析対象を経済団体、企業採用部門、企業事業部門の3つに区分したうえで、それぞれが主張する〈主体性〉の内容を理解しようとすることである。私(二宮)は日本公共政策学会2005年度研究大会において産業界による意思表明をマクロレベル(資本主義体制のレベル)、メゾレベル(財界のレベル)、ミクロレベル(個別企業のレベル)に区分して分析する必要があると言及した。それは理念的な発表でしかなかったものの、こうした分析の編み目を細かくする作業が必要であると認識している。
 全体を通じて私にとっては関心の近いテーマであり大変勉強になった。読み進めながら考えを深めてみたかったテーマを列記してみる。第1に、教育学(教育社会学ではない)に対する本書の貢献についてである。もちろん、教育学を射程に入れた研究ではないと主張することも可能である。しかし、紙幅の制約のためか本書ではおよそ2000年以降の教育社会学、社会政策、経営学、産業組織論の先行研究に焦点を絞って検討が行われているものの、それ以前には教育学の分野において企業の要望に対する分析が行われてきた。その際の観点の多くは上記の私の分類でいえばマクロ~メゾであり、問題意識は「教育は資本の従属物ではない」、「発達の概念を欠いた教育論でしかない」、「職業に関する教育はほぼ形骸化・縮小化する」、「目指すべき民主的な価値観と共存できない」といった大所高所の批判的なものである。教育学にとっても〈主体性〉は行政用語にもなっている鵺のような存在であるからこそその意味を理解したいはずであり、〈主体性〉を教育機関の外部から求められる場合においてその根拠を強く求めるのである。たとえば「従業員が入社前までに〈主体性〉を獲得するようになれば、個別企業の年商が倍増する」と言われたとしても、おそらく教育学ではそのことは教育、少なくとも公教育において優先するべき課題ではないとみなすだろう。そうした関心をもつ教育学に対して応答する手がかりを掴むことは容易ではないものの、本書が教育〈界〉を分析の範囲に含めようとするならば公教育や発達論などに関連した考察を深める必要もあるのかもしれない。
 第2に、データ分析の対象となっている経済団体の提言に関することである。私は勉強不足ゆえに、現在の経団連イデオロギーが理解できていない。かつては、その前身である日経連と旧・経団連とでは重視する価値観が異なっていて、前者の日経連のほうがより復古的かつ攻撃的であった。たとえば、上下関係や愛国心を強調する提言を行いつつ労働者による運動を厳しく抑圧するのは日経連であった。また、同友会はその設立当初は修正資本主義を主張したり、その後も比較的リベラルな提言を行うなど日経連、旧・経団連とはかなり異なる志向をもっていた。私は本書の理解を進めるために、日経連と旧・経団連との統合以降の、経済団体の現代的な動向について勉強しなければならないのである。そのうえで、もしかしたら高等教育論で研究されていたかもしれないけれども財界文書の作成過程や文章とイデオロギーとの関係が気になるのである。50~60年代前後の日経連の場合、経営者でもあり保守派の論客でもあるような人物がほぼ一人で教育についての提言を書き上げていたこともあり、それゆえに日経連による主張というよりは当該論客による主張と捉えたほうがよい場合もあった。経済団体の提言について、それをほんとうに財界の意思とみなしてよいのか慎重に考えてみたいのである。
 第3に、各種データの信ぴょう性についてである。これは筆者が責を負う問題ではけっしてない。大学内外の関係者にお話しを伺う場合に「実はあまり考えていたわけではなくて」、「前例を踏襲しただけして」という趣旨に聞こえるようなお声を頂くことがある。私は2016年の大学教育学会第38回大会で「就職四季報」の分析について発表したことがあるものの、そこに掲載されている求める学生像はあまり練られたものではないという前提を置いていた。〈主体性〉は何を意味するのかわからないこそ、また、自主性、自発性、自立性、自律性…などと大まかかつ曖昧に交換可能であるからこそ、すなわち中身がないからこそ普及したものであると認識していた。コミュニケーション能力も同様である。この問題については、本書では企業事業部門を対象とする聞き取り調査の結果を分析することで解決しているともいえる。実はこの事業部門に対する着目こそが、高等教育研究の文脈ではおもしろいところである。日本の雇用・採用慣行上、従来の研究では企業本社の人事部門を調査することが多かったためそうではない営業や製造などの「現場」の意見を聴くことは重要である。
 第4に、翻って経営学や産業組織論を基盤とした大学教育実践に関してである。第4章「企業はどのようにして〈主体性〉を評価・育成しているのか」において、現在のマネージャー層は若い頃のOJTや自らの創意工夫により〈主体性〉を身につけた一方で、現在のプレーヤー層はマネージャー層からのサポートによってそれを育成されているとまとめられている。聞き取り調査の分析によるものでなので、このことが事実かどうかは確定できないものの、ひとまずはそのような認識があるということは理解できる。しかし、そうであるとするならば、現代の大学改革の一部によって進められている大学生のリーダーシップ開発のような〈主体性〉の涵養は不要であり、従来の「大学では遊んでおいてね、入社後にOJTで鍛えるから大丈夫」論で十分であろう。とはいえ、たとえば大学発のリーダーシップ開発(日向野幹也編著、2022、ミネルヴァ書房)で紹介されている、私にとっては優れた実践にみえる大学教育も行われていることであり、そうした教育と入社後の上長によるサポートを受けながらの〈主体性〉の育成との関係はどのような特徴をもっているのか、よく知りたいところである。
 このブログでは繰り返し提起している課題であるものの、教育機関や職場において半ば強制されるかたちでありながらも〈主体性〉が身に付くというのは人の営みのパラドクスとして興味深いものである。命じられることによって命じられないでもどうにかなる主体に育つという、大掛かりなプロジェクトが続いているのである。