促進する・容易にする

ファシリテーションとは何か コミュニケーション幻想を超えての通販/中野 民夫/中原 淳 - 紙の本:honto本の通販ストア
 井上先生からお送り頂きました。ありがとうございます。

 この書籍のねらいの一つは次のように説明されている。

編者(井上)の意図は、ファシリテーションという〈妖しい力を〉社会のなかで適切に制御するすべを探ることにある。制御にはアクセル(加速)とブレーキ(減速)の両方が必要なのだ。
はじめに

 なるほど、確かにファシリテーションは社会の様々な分野において「よい」実践を引き出すための「よい」働きかけの方法として認識されている一方で、教育社会学の研究者はその背後にある人びとの力関係、「よい」という認識が成立する理由や過程、「よい」から取り残される個人や集団が気になるだろう。
 私は以下4点のじぶんの関心に引き寄せて勉強することになった。第1にファシリテーションの歴史についてである。以前参加していた科研のプロジェクト 「日本的な専門職コンピテンシー抽出と質保証システム構築のための横断的分析」において、経営学専門職大学院MBA)で行われているケース・メソッドという学習方法がTグループのような心理療法に似ていることに気付いたことがある。こうした心理療法については本書第5章「ファシリテーション概念の整理および歴史的変遷と今後の課題」で説明されている。

ファシリテーションファシリテーターという言葉を好んでもちいたのは、カウンセリングの研究と実践で著名な Rogers である。しかし、ファシリテーションファシリテーターという言葉の初出は、日本の通説では Rogers だとされているが、(筆者が調べてみた範囲では)誰が初出かについて学術的には明らかではない。一方で、ファシリテーションの原点にあたる、グループで他者と関わる体験を促進するアプローチについては、歴史的に辿ることが可能である。
99頁

Tグループ、エンカウンターグループ、日本のビジネス分野における「感受性訓練」などに言及されている。私はMBAのケース・メソッドについてあまり適切には説明ができなかったのだけれども、その後アクティブ・ラーニングについて学ぶことになり、やはり再び心理療法とのつながりを認識することになる。それはさておき、現代でも企業の集合研修のファシリテーターのことを「トレーナー」さんと呼ぶことがあったり、答えが出るはずもない自己の内面に対する課題に対して四六時中向き合わせれて人格が破壊されるような合宿研修が話題になったりするように、ファシリテーションの関心が他者の「こころ」にあることは続いているのだろう。歴史については、直接関係するものではないのだけれども、米国でTグループの開発・実践が進められていた同時期に、日本の産業の現場では小集団での品質管理運動(QCサークル)が盛んになっていく。

QCサークルの基本
QCサークルとは、第一線の職場で働く人々が継続的に製品・サービス・仕事などの質の管理・改善を行う小グループである。この小グループは、運営を自主的に行いQCの考え方・手法などを活用し創造性を発揮し自己啓発・相互啓発をはかり活動を進める。
https://www.juse.or.jp/business/qc/

一部の経営学からは他国に類を見ない労働者の「主体的」な勤労意識の表れであるとして「日本的経営」の強さの秘訣であると主張されていた一方で、他分野の研究からはその「主体性」は虚偽であって単なる労働強化だと批判されていた。このQCサークルにおいてはファシリテーションという言葉はまだ用いられていなかったものの、おそらく行われていたことはコミュニケーションの「仕掛け」である。ビジネス分野においては、労働者の意欲へどうにかアプローチしようとするサークル文化が残されていたからこそ、2000年代以降にファシリテーションが着目されるようになったのかもしれない。なお、小集団を意味する“サークル”が、エドワーズ・デミング由来の品質管理に関係していることから、PDS“サイクル”(後のPDCA“サイクル”)と混同されたことは以前に言及したとおりである。
 第2にアクティブ・ラーニングとの関係である。本書第7章「国策アクティブ・ラーニングの何が問題か」で、政策とし導入されるアクティブ・ラーニングに対して批判的見解が示されている。私は初等中等教育のことをあまりわかっていないので、6節以降の高等教育について焦点を絞ると、学生側の「主体的」な対応、いや反抗に対して考察してもよかっただろうか。私はFD担当者としてアクティブ・ラーニングのTIPSを紹介する研修を行うこともあるものの、時間に余裕があるときにはそれらに言及する。

とくにコミュニケーションを求める教育方法は、いろいろな意味でハードルが高い。大学にはいろいろな学生がいます。発表やグループワークがあるとシラバスに書いているだけで「履修をやめます」という学生も一定数出てきます。
169頁

読者はこの部分で「だからアクティブ・ラーニングは好ましくない」と思われるかもしれない。他方、私は「やめるという判断、行動ができる」ことが高等教育では可能であり、それは決して好ましくないとはいえないと評価している。また、この6節では、1990年代の経験談では知識の定着のための課外の「主体的」な雑談を現在のアクティブ・ラーニングの疑似的なものと捉えたうえで肯定的に評価しているのに対して、現在の「大衆化」した大学での動機づけのための「標準仕様」アクティブ・ラーニングを否定的にみなしている。対談であるため仕方のないことだけれども、アクティブ・ラーニングによって何が達成されようとするのかという目的論を見失うのはもったいないことである。そして、「標準仕様」アクティブ・ラーニングのある場合において、途中で履修をやめたり、「やっているフリ」をしたり、フリーライダーになったりする学生の行為は当事者にとっては合理的なものである。私はそうした判断、行動もまた形成的評価の対象となる学習であると認識している。たとえば、グループ内にフリーライダーがいたりじぶんがフリーライダーになったりしたことから学習できることもある。

僕が大学の専任教員になった当時(2004年)のFD(Faculty Development)といえば、それぞれの授業実践や学生の反応を、同僚の先生方とフラットな立場で話をしながら、授業や教材・教具のティップス(tips: 秘訣や裏技)を共有・発展させようという草の根レベルの取り組みとして、自主的に行なっていたところが多かったですよね。
しかし、2008年にFDが義務化され、外部評価の対象や条件になりました。そうなると、自主的な取り組みでは外部評価の対象にはなりません。高等教育研究者や教育方法学者などの「専門家」を外部講師として招き、オフィシャルに「FD講習会」を開催し、教員に出席を求めるようになりました。
ところが、その講演会では、講演先の大学や学生の事情をよく知らない外部の専門家がご高説を垂れるから、現場の実情とピントが合わない一般論や抽象論、最悪なのは上から目線の精神論です。個人的にもFD講習会が自身の授業改善の参考になったという記憶がまったくといってよいほどありません。その要因は明らかに現場の課題との隔絶です。
170頁

FDについては同僚性が必要であると言われてきた。他大学の高等教育研究者・大学教育研究者、文部科学省職員による講演型FDは確かに同僚性を欠くつまらないものだろう。同時に、教育学関係者であれば学習にはレディネスが必要であること、現場の課題は現場でこそ解決されること、同僚性のある草の根FDとオフィシャルFDは共存できないものではないことなどが論点になる。日本高等教育学会か大学教育学会で、この書籍を対象にしてのシンポジウムがあってもいいだろう。
 第3にギデンズの再帰性論である。第8章「反省性を統治する」ではファシリテーションが行われるワークショップの複雑に入り組んだ経緯、展開が整理されている。

ワークショップがさまざまな領域で固有の文脈をもって展開してきたということは、そのルーツが多岐にわたっているということでもある。ざっと挙げるだけでもタルト・レヴィンらのグループ・ダイナミクスにおけるラボラトリー・トレーニング(やがてTグループ、感受性訓練などと呼ばれていく)、ヤコブモレノのサイコドラマ、カール・ロジャーズによるエンカウンター・グループ・アプローチ、アメリカにおける住民運動参加の展開、パウロフレイレの(識字ないしは開発)教育論、それを取り入れた演劇ワークショップの展開、美術教育における手作業の工夫、ジョン・デューイに影響を受けた教師教育の展開、子どもの人権や主体的な学びを重視する社会教育や人権教育の展開、川喜田二郎KJ法と移動大学など実にさまざまである。ワークショップから派生した側面があるファシリテーションの場合はさらに、レヴィン、ロジャーズ、モレノなどのルーツを共有しつつ、エドガー・シャインのプロセス・コンサルテーション論、ピーター・センゲのラーニング・オーガニゼーション論、ビジネスにおける先駆例としてのゼネラル・エレクトリック社(ジャック・ウェルチ時代)における「ワークアウト」の実践などがさらに関係している・
181頁

そのうえでデューイ、ベイトソン、ショーンの主張が紹介され、ギデンズ再帰的(反省的)モニタリング論にたどり着く。とても納得するところであって、個人の行為の参照先が伝統的な慣習であった前近代とは違って、「自己は自らによって構成され続ける」からこそファシリテーターが意味を成すのだろう。ファシリテーション一般ではなくFDにおいても「なんのために学習するの?学習してきたの?」という問いが常に背後にあり、「それは神から授かったものだ」「この村の祖先と同じように」では答えとして認められなさそうである。後期近代論は第3章「『野生の学び』としてのワークショップ」の言葉でいえば「鋭く、小気味よく、かっこいい」(52頁)ので、明晰な分析を可能にする。他方、第3章を含めた本書前半部分のファシリテーションの推進を主張する立場からすると、それでは物足りない。私は編著者の一人と同様にアンビバレントな立場であり、学術的な意味での批判的主張と、その批判は現場においてはあまり的を射るものではないという主張の両者間で揺れている。
 第4は、教育社会学・教育学とファシリテーションとの距離である。ある時代のある場面においては左派の根城であり、別の時代の別の場面ではポストモダンであり、はたまた別のところでは政策科学や教職養成に特化したものである。第3章は「『野生の学び』としてのワークショップ」は筆者の東京大学在籍時の駒場、本郷における経験が説明されている。

1日15時間とか16時間とか、死ぬ思いで受験勉強してやっと合格したのに、喜び勇んで入学したら、夏には摂氏38度の教室に400人が詰め込まれるような教育環境でした。まず、学びのための衛生要因から、なっていない。当時は、教室にエアコンがなかったから、試験を受けるときは手が汗で真っ黒でぐちゃぐちゃになって「もうこんなテストいいわ」とバーンと答案を置いて帰ってきた(略)授業のいくつかは「詩吟」か「朗読」でした。つまり、先生が教科書やノートを、そのまま「読む」のです。「読む」じゃなくて「詠む」です。
48頁

〇〇先生は(伏字は二宮による)最初に授業の人数を減らすために、学生のなかに、サクラの大学院生を出席させておいて、映画の質問を、彼らにするわけですよ。当然、院生がスラスラ答えますよね。他のやつはわからないわけですよ、白目をむいてポカンとしている。「学期中に100本映画を観ないやつは、ここにいなくてよろしい」なんて言っちゃう。それでも残っているやつにしか教えないみたいな(笑)。学生を追っ払っていたんです。
50頁

どこの大学でも、当時の学生はこのような経験を多かれ少なかれしていただろう。汗でびちゃびちゃの答案用紙400枚、教員は回収してからどうしていたのか謎である。エアコンがないので学生から人気の座席は後方でもなく通路側でもなく、扇風機の近くであった。この記憶された光景と「大学改革」を直接結び付けて論じるのは慎重であるべきかもしれないとはいえ、記録として残されているのは有難いのである。
 本章ではまた当時の学生、院生から見えていた東大の教育学、教育社会学の事情が描かれている。私はここで紹介されている「オンライン雑誌」をこっそり一人で読んでいて、そうだと同意できるものやいやいや違うなあと反論していた。本章の筆者は教育学部での学習がポストモダンであったり、教室内外の権力や社会的な不平等の問題に着目するような(筆者はこの言葉を使っていないものの)「批判的教育学」であったりしたこと、それゆえに「現場」に対して何ら貢献できないことを残念に思っていたことを述懐している。私はこの問いこそが、本書の通底にあるものだとみなしている。言い換えると、教育社会学・教育学とファシリテーションとの距離がどのようなものであり、どのようにあるべきかという問いである。この点もまた本書に関する今後のディスカッションの機会などで検討が望まれるのだ。