社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

政策過程論として読むと同時に、社会運動と研究の関係のあり方について考え込んでしまった。
保革の対立以上に、保・保の対立、中央・地方の対立が男女共同参画条例のあり方に影響を及ぼすというのはとても勉強になった。政策過程研究はこれまで保・保の対立にはよく着目してきたけれども、中央・地方の対立、正確に言うと、両アクターが対立しているというのではなく、地方の「ふつう」の人びとが中央―中央というのは東京や大阪といった地域を指すというよりは、権威のあるものを意味する―のジェンダーの研究者やジェンダーに関心を持つ政治家の言いなりにならないで、じぶんたちでじぶんたちの生活に即した条例を作るんだ、という姿勢にはあまり関心を払ってこなかったのかもしれない。「ふつう」の人びとはそのイデオロギーとはまったく異なる次元で、男女ともに家庭の外で賃金を得る労働をしているし、家庭の中で賃金の発生しない家事をしている様子が描かれているのである。
ここで、「ふつう」に括弧をつけた理由は、よくSNS上で自らを「ふつう」であると主張する保守的な論者に対して何らかのラベルを張りたいからではなくて、まさに彼・彼女が自認するように極端な主張や極端なたたずまいがほんとうにないことを強調したいからである。

女性学ジェンダー学者や弁護士、運動体などによる、主婦や「主婦のいる主人」の男性を「バックラッシャー」とみなそうとする言説や、「バックラッシュ」は「ファシズム的運動」であるという解釈は、「バックラッシャー」は自分たちとは著しく異なる他者であるとみなす機能を果たしてしまった。それは、係争における論争相手=保守運動家たちが、「敵」としてのフェミニズムを過大視し、実態とは大きく異なるイメージを保守論壇内で共有した姿と、まるで鏡写しのようでもあった。
44頁

社会運動と研究の関係のあり方の難しさは、教育の領域にとっても示唆的である。教育という営みは権力を伴うので、どうしても中央的なる運動がその他を従わせるということに慣れてしまっている、その権力性への目配りが不足しているのかもしれない。そのために、たとえば大阪のように、じぶんたちでじぶんたちの生活に即した教育を構想するのだというという姿勢が露わになったときに、中央的なるものにいる人びとは戸惑いを覚えてしまうのだろうか―だからといって、大阪の構想を私が支持するわけではないけれども。
ただ、この本はせっかくそうした複雑な状況を時間をかけて丁寧にひも解いているにもかかわらず、荻上のまとめに疑問を感じるところもあった。

今の私たちに必要なのは、実証に基づいた丹念な改善提言。潜在的なニーズの発掘と発信。現場のニーズに根ざした活動。状況に合わせた新陳代謝の加速。そしてなにより、社会問題の具体的解決。
355頁

単純な工学的発想であって上滑りにみえてしまう。この本で明らかになったことの一つは、たとえば現場のニーズの捉え方の中央・地方の差異である。中央的なるものにいる人びとが押しつけがましくニーズを設定して各地で齟齬を生じさせたのだ、ということではなかったのだろうか。