ヤンキー研究の感想

ダイが後ろの席にある筆箱を見て「きもっ」という。見ると、その筆箱には、短髪の男子と女子がキスをしているプリクラが貼ってあった。ダイは、その筆箱をこぶしでたたく。がんがんがんと、かなり強く叩いている。私が「それ誰の?さすがにひどいだろ」と言っても、「知らん、〈インキャラ〉」と言ってやめようとしない。後でその筆箱を見ると、ヒビが入ってしまっていた。(フィールドノーツ、二〇一〇年七月十六日)
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この場面で、ダイは、異性愛実践を象徴する「男女がキスをしているプリクラ」が貼られた筆箱を叩き壊した。こうした事例に端的に表れているように、彼らにとって〈インキャラ〉は、異性愛の舞台にあがるべき存在ではないのである。
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ヒロキ:おれ、朝早くから働いて、夕方には帰るっていうのがいいねん。
知念:朝早くからって朝七時とか?
ヒロキ:そう。そやったら、家族でご飯とか食べれるし。朝は無理やけど、夜は一緒に食べれるから。で、日曜日は休みみたいな。日曜日休みやと。子どもと遊びにも行けるし。そんなんがいいねん。(フィールドノーツ、二〇一〇年十月一日)
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(略)本章の関心にとって重要なのは、こうした語りが、自らの家族経験と結び付けられることによってなされる傾向にあったことだ。
153頁

その状況をまるで目の前で見ているようであり、かつ、それぞれに納得できる考察が行われている。エスノグラフィーはおもしろい。
ところで、筆者も指摘しているように、実は若者の階層文化を対象とした研究の蓄積は日本に限定しても厚い(一部の他分野の研究者は階層文化論を「じぶんとは異なる文化も知っている」ことの他者に対する自慢でしかないと評することがあるけれども、もちろんそれは不当である)。そのこともあって、序章「〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー」と第1章「ヤンキーはどのように語られてきたのかは」は日本の70年代以降―あのドラマ「3年B組金八先生」で描かれていた受験戦争・学校の荒れ~不登校~障がい~ソーラン節のようなテーマの時代的推移―の教育社会学が関心を持ってきたことがらの一部の歴史を描いていることにもなっている。専門を異にする私がとても参考になるのは、次の分析視覚に関する説明である。

第二に、高校一年段階から二十歳代前半までを追跡しているという調査の継続性である。若者たちを長期的に追跡した代表的な研究として、高校卒業後五年間を追跡した乾彰夫らの調査がある。この研究では、高校三年時点でアンケートやインタビューをおこなっているものの、その主眼は卒業後の生活にあり、学校生活を十分に分析できる設計にはなっていない。逆に、学校を舞台にしたエスノグラフィックな研究はこれまでも多数蓄積されているが、それらのほとんどは学校を離れた後の生活まで生徒を追跡していない。それらに対して私の調査は、高校一年段階から追跡しているため、学校生活で〈ヤンチャな子ら〉の生徒同士の関係、教師との関係が実際にどのように営まれているのかを把握でき、それを学校離脱後の生活と結び付けて分析することも可能になっている。その意味で本書の試みは、「学校から仕事への移行」研究と、生徒文化研究をつなぐものとして位置づけることもできるだろう。また、対象者に高校中退者を含んでいることも、調査の継続性から得られる利点である。
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このことは高等教育研究ではまだほとんどできていない。高等教育研究において、その調査ではいわゆる「ワンショット・ サーベイ」が多い、学生文化研究が盛んではない(ほんのわずかな研究者によるものにとどまる)、中退者を追跡していない、移行過程の詳細がわからないなど問題はたくさん残されている。その中でも私は特に移行過程をじっくり調べることの意義について本書から学んだ。中退による移行も含めて、ここまで綿密な研究はまったくといってよいほどできていないのである。第5章「学校から労働市場へ」では、6人の〈ヤンチャな子ら〉の移行経験が語りをもとに紹介されている。〈ヤンチャな子ら〉の生育環境は必ずしも良いものとはいえないことも多く(そのため本書では家族社会学ジェンダー論まで目配りしていて、そのことが解釈を豊かにしている)、移行経験も容易なものではない。トオル「『人の下につかない』仕事を構築する」、コウジ「現場仕事と居酒屋のかけもちから『キャッチ』へ」、カズヤ「地元で育ち、地元で生きていく」、ダイ「そのときどきを生き抜く」、中島「彼女の妊娠をきっかけに『フリーター』から正規職へ」、ヒロキ「『音楽やる』ために『派遣』として働く」、といったそれぞれの意志や状況に基づいたキャリアが描かれている。そして、複数の先行研究で示されてきたとおり、若者の移行過程において家族や地元の友だちとの関係の内容、程度が重要であることが確認されている。その中で、知り合いの知り合いから「グレー」な仕事に誘われてしまうこともあるし、専門高校を卒業した友だちの紹介でその専門性を持っていないのだけれども採用が決まることもある、というのだ。高校での学習・生活経験、移行経験、職場での経験、これらを一貫して捉えてみようとすることはほんとうに重要である。その高校を大学に置き換えて、留年や中退といった出来事、それに関係しているかもしれない家族や友だちとのネットワークにおける諸事情もふまえて理解を試みなければならないのだろう。
「ないものねだり」の感想としては、私の関心はどうしても「耳穴っ子」に向いてしまう。ここで紹介されてきた陰キャではない〈ヤンチャな子ら〉は教室で目立つ存在であろう。その斜め後ろにいて数人で固まって持ち込んだゲーム機で遊んでいる「耳穴っ子」が、こうした高校でどのような経験―教師生徒関係についても何か特長はあるのだろうか―をして、移行の道筋を歩んでいくのか、またそれに関連して自らの生まれ育ちをどのように語るのかについても知りたくなってしまう。