表題に「いわゆる」を冠したのは、高等教育論の分野ではこの言葉をあまり使わないからである。研究者によってはその代わりにボーダーフリーという言葉を用いることもある。しかし、これもまたある予備校作成の入試難易ランキング表で使われ始めたのであって、研究者の共通理解が得られるような学術的定義が定まっているわけではない。
大晦日にこんなエントリを書いている理由は次の2つの記事が気になったからである。


まず、この記事である。
http://blogos.com/article/152415/
BLOGOS:大学進学率を下げよう!〜「Fの悲劇」をなくすために

「Fランク高校」の進路指導担当の教師たちは、卒業生がすぐにやめてしまう就職指導は避けて、企業とは無関係な「Fランク大学」への進学を進めているとのこと。
その結果、「F」の学生たちには多額の大学ローンが残り、大卒後就職できたとしても(大学院どころか)ブラック企業に入るという。
(出所:同BLOGOS)

確かに、高校の進路指導において就職よりも簡単な大学進学を勧められたり、大学卒業後に貸与奨学金の返済で困ったり、ブラック企業に入社したりしてしまうことがあるだろう。そして、おそらくこのブログ主のいう「Fの悲劇」というのは主として後者2つを意味しているように思われるのだが、いわゆるFランの存在の否定を強調したかったためであろうか、主張の内容、前後関係がよくわからなくなっている。まず、「企業とは無関係な」という意味がよくわからない。仮に就職率が低いという意味だとして、大学ポートレートでいわゆるFランといわれる大学の就職率をいろいろと見てほしい。ブログ主の想定以上に高いはずである。そこで、ブログ主からは「就職したとしてもブラック企業だろう」という反論があるかもしれない。しかし、それは単なる印象論にすぎないし、そもそもブラック企業問題はいわゆるFラン大学の卒業生だけに関係があるわけではない。貸与奨学金の返済にしても、それは多くの若者にとっての、いや、社会的な問題である。問題を狭いカテゴリーに押し込めてしまってはならない。なお、印刷中の二宮(2016)において、入試難易度が低い大学では正課内の授業で具体的な就職支援を行う傾向があることが示される予定である。いわゆるFラン大学だからこそ経営上の問題もあることから、細かいところにまで行き届いた手厚い就職支援を行っていることもあるという想定はできなかったのだろうか。一部の銘柄大学のように、就職支援はそれに関心がある学生だけを対象にしているということもなかろう。

グローバリゼーションに呑み込まれた我が国では、実践的サービス業スキル(飲食・販売・宿泊等)をもつ若い労働者が労働者の主役になっていくしかないのではないだろうか。
(略)
また、「F」ランク大学は率先してサービス業訓練学校に自らを改革していけばいけば(原文ママ)いい。

「実践的サービス業」に関する主張は私の専門外であって判断することは難しい。ブログ主と同じく印象論でしか語れない。しかし、後者の「サービス業訓練学校」については、需要に合わせた供給を行ってみたことの失敗、即ち、労働力の需要に合わせて教育内容を編成することの失敗を指摘することができる。60年代〜70年代前半の高校職業科の細分化と大括り化、結局はそれをどちらも無視することになる企業とか、90年代以降の大学のIT系、農学系等の学部学科の増設、同じく結局はそれに対応しなくなる企業とか、過去の失敗はいくつもある。成功する事例もあるものの、それは極めて職業との結びつきが緊密である(公的資格があること、職業世界での実習が制度化されていること、レディネスの備わりが入試や進級時等において確認されていることなど)という特徴を有している。果たして、「サービス業訓練学校」はどうなるだろうか。


次に、この記事である。

http://tmaita77.blogspot.jp/2015/05/blog-post_4.html
データえっせい:大学生の組成図

私大の偏差値30台とBFは,大学レベルの教育を受けているのか怪しい学生ですが,このゾーンの学生は全体の16.0%です。Fラン学生の出現率は,およそ6人に1人なり。
(出所:同「データえっせい」記事)

この記事は教育学者によって書かれたものである。「大学レベルの教育を受けているのか怪しい」ということの根拠は何であろうか。この主張もまた印象論にすぎない。法的には認証評価によって大学教育の質は保証されていることになっている。もちろん、認証評価は大まかなものにすぎず、個々の学生が「大学レベルの教育」を受けていることを直接的に確認しているものではないという反論があるかもしれない。しかし、そうであるならばもう少し根拠を提示するべきである。いわゆるFラン大学における教育改革の試み―「大学レベルの教育」を受けられるようにする構えの構築、「大学レベルの教育」を勉強が苦手な学生に受けさせるための工夫―をまったくご存知ではないのか不安になってしまうのだ。先に述べたように、経営上の要求から教育改革が進展するということもある。また、もう少しいうと、ある伝達される知識が「大学レベル」かどうかをどのように測定できるのだろうか。たとえば、商業分野/工業分野のある知識は、銘柄大学商学部/工学部の1年生や2年生で扱われる一方、専門高校(商業科/工業科)でも当然のごとく同じように扱われている。教育機関のカリキュラムは知識やその体系そのものではなく、社会的に「つくられる」側面があるということをお忘れではないか。