- 作者: 筒井美紀
- 出版社/メーカー: ジャパンマシニスト社
- 発売日: 2014/03
- メディア: 単行本
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まえがきでは、「大学とは、本物のリテラシーを身につける場である。それがどういう意味なのか、できるだけリアルなイメージを持つように心構えをしておくこと」だと述べました。
この最終章では、もっとズバリ言いたいと思います。大学選びより100倍大切なのは、授業(教員)選び、とりわけ、ゼミ選びである。
このことは、どんなに強調しても強調しすぎることはないでしょう。なぜなら、なんのかんのいって、大学ランキングに振り回されている人が多いからです。
(略)
大学の内側で、どんな教育がなされているのか。そこで学ぶことになるみなさんが、気にするのは当然です。内側を客観的に示す何かを求めるのも当然です。
けれどもランキングのようなものは、そのための小さな手がかりでしかありません。それは、内側の多様性や個別事情を表現するものでは決してないのです。
150-151頁
この指摘はそのとおりで、新聞や雑誌が発表する各種のデータをもとにしたランキング、予備校や通信教育会社が発表する入試難易度ランキングからは、学生が豊かな知識や技術を身に付けられるかどうかはあまりわからない。ランキング紹介のコラム欄で紹介されるような極めて高名な研究者による講義がある学生の知識や技術を必ずしも豊かにするとは限らない。立派な先生のお話しを半年間聞いたという満足感を得ることはできるし、後になってその先生に師事したなどと言い張ることも可能だろうけれども(さて、この話しは何のことだったか)、それだけでよいだろうか。他方、そうではない研究者による講義が知識や技術の伝達に優れているということもある。言うまでもないことだけれども、筆者の言う「本物のリテラシー」が問われる場面の一つはまさにこの授業(教員)選び、ゼミ選びである。
さて、それでは、どうやって教員(授業)やゼミを選んだらよいのでしょうか。
一人ひとりの教員と真剣に接すること、これしかありません。
ところが学生たちは、彼ら同士で交わされる教員の評判やウワサに頼りすぎているのです。
(略)
たとえば、「ミキティ(←私のあだ名)の授業さあ、発言するとミキティが納得するまで逆に質問攻めに遭うらしいよ」「マジ? めんどくせーな。オレ、取ろうかとちょっと思ってたけど、やっぱやーめよ」、ってな感じです。
私は次のように言いたい。ちょっとでも授業を取ろうかと思ったのなら、少なくとも第1回の授業には出てみなはれ、と。
さらに、次のようにも言いたい。君が質問「攻め」と呼んでいるその場面を目撃したほうがいいよ、いっぺんそれを経験してみたらいいよ、と。そうすれば、「なんだ、別に質問『攻め』にしてるんじゃないんだ」とわかるでしょう。
すなわち、質疑応答の連鎖、つまり対話のなかでこそ、その学生が持っているけれどもうまく言語化できていない考え方が引き出される、それが肉声となって教室を充たした瞬間、なんともいえない達成感となって静かな自身が生まれる。そんなことを味わってほしいということなのです。
154-156頁
学生同士の会話のなかでは、教員に関する体験談や噂話しはより面白いほうへ「盛る」ようなことがあるかもしれない。厳しい教員はより厳しく、楽しい教員はより楽しく。しかし、その「盛られた」厳しさは「盛られる」以前にある学生にとっては自らを成長させることになるかもしれないし、ならないかもしれない。「楽しい」もまた同様である。そのため、筆者が強調する「一人ひとりの教員と真剣に接する」というのはとても重要なのだろう。その際、上記の事例においては、私たちが日常的に使っていることばを対話によって精緻化していくことを通じて、実は学問的トレーニングが同時に行われていることも覚えておいてよいだろう。
なお、同じく筆者のいう学生からみた場合の「質問『攻め』」、教員からみた場合の「考え方の引き出し」については本学ではFDの論点である。たとえば「学生が可哀相だから、そうしたコミュニケーションは避けるべきだ」「工学部では『考える』とは別のことを意味する(工学の知識を暗記するだけでよい)」などという主張は、筆者の観点からすれば学生をスポイルすることになるかもしれない。本学ではどうするべきだろう。