日本型大衆社会の収縮

 この書籍では第1期調査(1989~1992年)、第2期調査(2007~2011年)、第3期調査(2014~2016年)に行われた質問紙調査、インタビュー調査を必要に応じて時期間で比較する分析が扱われている。私(二宮)が学部生のときの講義で習ったのは第1期調査のことである。第1期では住民間の「うわさ」によって地域に分断がもたらされるという事実が極めて印象的であった。当時の講義では調査者による子どものサブカルチャーへの親しみに対する解釈が納得できなかったという記憶を引きずりながら、再度団地の生活について勉強する(私自身はかつての公団団地(高層集合住宅)住人である)。
 特に強く関心をもったのは、第5章「低所得家族の教育戦略における主体的行為と構想―『手に職・資格戦略』に焦点化して―」(注:「主体的行為」にはエイジェンシーというルビがふられている)である。ブルデューの「再生産戦略」を「家族の資本の量と構造+再生産手段システムの構造」と定式化したうえで、それを参考にすると家族には4つの戦略があるという。第1に「学歴による教育戦略」であり、第1期調査において考察の対象となっていたものである。無理をしてでも「いい学校」へ進学させようとしたり、しかし、さまざまな事情によって「展望がつぶされていく」こともあったりする。万人が同じ価値観に依拠して競争へ駆り立てられるモデルともいえる。第2に「早い自立戦略」であり、高校卒業後すぐに「自立」を求めるものである。一人暮らしで仕事をしたり、実家にいる場合には生活費を払うことが必要になったりする。第3に「手に職・資格戦略」であり、「学歴による教育戦略」との違いは「一生働くことのできる職」のような希望が主張されることである。第4に「つながりによる職業獲得戦略」であり、友だちや知り合い経由で仕事を得るものである。
 私が意外に捉えたことが2つある。まず、「つながりによる職業獲得戦略」が第2期調査、第3期調査では見られないということである。たとえば、〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出すは2010年代半ばに二十歳前後であった「ヤンチャな子」を対象にしたインタビュー調査から、「プライベートはあまり知らない人」、「親戚」、「地元のツレのオカン」、「幼なじみ」といった社会的ネットワークを通じて職を得る過程を明らかにしている。90年代以降の若者の不安定な移行に関する研究においては、量的調査でも質的調査でもそうしたつながりを介したトランジションがみられるという。他方で、この第2期調査、第3期調査では反学校的文化の衰退、建設業の雇用の減少を理由として「つながりによる職業獲得戦略」がなくなり、その代わりとして「手に職・資格戦略」が増えたと考察している。建設業の雇用については地域差があるためにこうした相違が生じるのかもしれないものの、反学校文化の特徴についてはもう少し考えてみたい。冒頭の「再生産戦略」では文化資本、経済資本の多寡が重要となるわけだが、そのことと反学校文化にはどのような関係があるだろうか。次に、「手に職・資格戦略」が第1期調査ではなかったことである。「くいっぱぐれのない職を身につけることが必要だ」という主張が当時には見られなかったということでもある。確かに、一元的能力主義規範が広まった社会においてはそうした思考は表出されないのかもしれない。ともあれ、たとえば資格が必要となる職である電気工事士や美容師になりたい/させたいという戦略は時代によって変わるのかもしれない。また、第3期調査のアンケートでは、「手に職・資格戦略」の場合には文化資本が相対的に高いことが明らかにされている。これについては経験的には納得できるものであり、そもそも安定した職にはどのようなものがり、その職に就くためには何をすればよいのかを知るために家庭の資本が必要になるのだろう(私の場合は子どもの頃から珠算、簿記を身につければ生きていけると家庭内で強く主張されていたのだけれども、もっと資源があれば公認会計士、税理士が挙げられたのだろう)。
 以上のような困難を社会的に(個人的にではない)克服する方法が終章「大衆社会統合収縮後を生きる低所得層家族のかたち」で模索されている。私は関心を持ちつつも苦手とする領域である。どなたか読書会を開いて一生に勉強しませんか。

追記:サブカルチャーに関連して、漫画家を目指して大学を中退した事例について高等教育論の立場からも考察するべきことがあるのかもしれない。