総合選抜制度の思い出

 ふと思い出してずっと気掛かりだったことを書いてみる。私が中高生のときに住んでいた兵庫県では一部の地域における高校学区が「総合選抜」制度を導入していた。「総合選抜」の細かいルールは自治体によって異なるものの、一つの高校単位ではなく学区全体で合格者をたくさん決定したうえで、各高校の「水準」が均等になるようにその合格者を振り分ける制度のことである。東京都出身の方には学校群制度、日比谷高校のかつての「凋落」の由来というと通じやすいだろう。
 この「総合選抜」制度について先行研究を探してみたものの、あまり多くはないようである。あるいは、そもそも学区とは何か、何のために存在するのかという教育行政学の理論的な課題になるため、実態としてどうであったかという問いはまだ十分には探索されていないようにみえる。私のかつての卑近な経験例では、当時神戸市内のすべての学区で単独選抜が行われていたのに対して、明石市、西宮市、尼崎市などの周辺自治体では「総合選抜」が導入されていて、このことによって制度の「歪み」とも言えるかもしれない事態が生じていた。第一に越境入学である。もちろん、神戸市の西端と明石市の東端のように町域単位で越境が認められている場合もあった。しかし、その地域ではないところでも中学2年生の時点で引っ越しをして住民票を移すことや、剣呑な場合には引っ越しをしないまま住民票のみを移すことによって神戸市内の高校を受験することも行われていた。現在とは違って神戸市内には3つの学区があり、いずれも明確な偏差値序列で高校がランク分けされていて、とりわけ上位校ほど強い差異化が行われている。そのたえ自らの「学力」に合う学校への入学を求めて越境するのである。特にこのことが生じやすいのは、居住地の中学校に通っていないことから転校をする必要のない生徒である。ありていにいえば進学先となる附属高校がない、国立附属中学校の生徒である。越境入学は認められないこと、そのための住民票の移動なども許されないという指導も中学内で行われているけれども、高校側にその移動が適切なものであるかを判断する方法はないことから、なぜか中2で住所が変わる生徒が複数いた。第二に私立高校の生徒募集である。神戸市やその近隣自治体には戦前からの経緯もあって私立の中学校、高校が比較的多く存在している。いずれかの書籍でも言及されていたかもしれないが、土地や人脈以上に公教育に頼る必要のある新興中間層が集まった街である(なお、現在では極めての難関である私立の中高一貫校も古くからの神戸人からすると旧制ナンバースクールよりも格下にみることもあるらしい)。「総合選抜」を嫌う生徒の進学先がその制度の枠外にあるそうした私立高校である。明石市以西であれば、非常に校則が厳しく学習進度も早いことで知られていた播磨地域の私学が人気となる。また、例外的なケースであるけれども同じく制度外の高等専門学校や公立高校理数科(という名称の実質的な特別進学コース)もおそらく他地域以上に人気であった。これはいわば私立高校からすると有利な状況であり、当時何が生じていたのかをわかりたい。第三にほんとうに狙いどおりに「学力」の学校間格差は解消していたのかどうか、先行研究をみてもよくわからないことである。学校にはチャーター効果が効くことがあるので、社会からのまなざし(と教師や生徒が認識あるいは誤解するようなもの)によって「学力」も影響を受ける可能性がある。明石市であれば「総合選抜」導入以降も、戦前の旧制中学の伝統を持つ高校が上位の進学校として認識されていた。「学力」を定義することは極めて難しいのだけれども、いずれかの分析の角度で理解をしたい。第四に、革新自治体との関係である。以前ある京都出身の学者から「左派が進めた『総合選抜』政策によって進学したくなかった『学力』の低い高校に通う羽目になった、『総合選抜』がなければ京大に進学できたはずなのに悔しい、教育学者は責任をとるべきだ」と詰められたことがある。私がその宛て名になる道理もないような気がするとはいえ、自治体の性格と「総合選抜」の導入や廃止についても比較分析のような理解が可能であるのかもしれない。
 そんなことをぼんやり書きながらも、追記が必要なことがある。それは単独選抜だからといって、中学生が自由に受験校を選択できるわけではなかった事情である。中学校が模擬試験(兵庫模試)や過去の在学者の成績を参考にして、受験するべき学校を強く推していたはずである。極めて怪しいことに、私の出身高校の競争倍率は当時毎年ちょうど1.00倍から1.02倍弱、1学年入学定員450人に対して受験者が450〜460人であった。この数字について、おそらくこれまで公には問題にされてこなかったはずである。「15の春を泣かせない」という教育的配慮のもと、高校と中学の間で事前の調整が行われていたことが推察される。ただし、この追記を学術的な問いにするためにはもっと洗練が必要であり、私にはとても解けないのである。