橋本鉱市、2011、「高等教育懇談会による『昭和50年代前期計画』の審議過程:抑制政策のロジック・アクター・構造」『東京大学大学院教育学研究科研究紀要』51
荒井英治郎、2011、「教育法制研究の課題と方法:静態的法制研究から動態的法制研究へ」『教職研究』(信州大学全学教育機構教職教育部)4



この2つの論文を読んでもやもやとしている。学会発表の準備を進めなければならないのであるが…。
橋本論文では天城第2メモ(天城勲「高等教育に関する第二の構想(メモ)」)が完全抑制の契機となったとしていて、それはそのとおりだと思う。そのうえで、私の手元にある喜多村和之の資料は、天城勲自身が8月2日時点で「特に必要があると認める場合」の意味、高等教育レベルの専修学校・専門学校の扱いを考慮していなかったとしているのであるが、それはにわかには信じられないのである。

私立学校振興助成法(7月11日) 
文部大臣は、昭和五十六年三月三十一日までの間は、大学設置審議会及び私立大学審議会の意見を聴いて特に必要があると認める場合を除き、私立大学の設置、私立大学の学部又は学科の設置及び私立大学の収容定員の増加に係る学則の変更についての認可は、しないものとする。

天城第2メモは、「特に必要があると認める場合」に注目するとして、さらに厳しい抑制案を打ち出している。しかし、同時に、新構想短期大学はこの「特に必要があると認める場合」に該当するものだとして積極的に考慮せよ、と主張する。これは、天城第1メモ(天城勲「高等教育計画について(メモ)」の要点のひとつであって、誤解をおそれずに言い切ってしまえば、抑制政策とセットであったはずの日本版コミュニティカレッジの新設である。天城がフリーハンドで操縦できる部分を「特に必要があると認める場合」という文章に残していたのではないか、と推測するのである。とはいえ周知のとおり、新構想短期大学、工業高専の改革、専修学校から大学への「進学」促進、私学2分の1補助、それらを含めた高等教育のさまざまなことがらに関する「ソフトな構造」への移行はあまり達成できないのである。進学率の抑制のみが当初の意図よりも「成功」してしまう。
そして、荒井論文に関連して、やはりなお助成法が成立に向けて修正を繰り返される中で、その内容が後退していくのを私学団体が容認したロジックをわかりたいのである―文教族の強い意向という理由ではない、カッコ付きの制度的なものとして。天城第2メモに関しても同様に新制度論的なメガネをかけて考えたい。