蛍光灯とエアコン

以前の勤め先の一つと現在の勤め先とで共通していて、最初に勤めた大学ではあまり見かけなかった習慣がある。それは、教室に入った学生が誰一人として照明や冷暖房を操作しようとはしないことである。たとえば、履修する講義がない時間帯に空き教室で待機したり、次の講義を受けるために早めに教室に入ったりする場合に、教室を快適な空間にしようとすることがない。夏の南向きの教室で窓も開けないまま100人の学生が汗だくになっている、冬の北向きの教室で、外套を身に着けたままで寒さに震えながら、BYOD機器(スマホやノートPC)で手元だけの明度を確保―まるで100の蛍が飛んでいるかのよう―しているのを見る度に、部屋全体を明るく、暖かくできるスイッチが黒板の横にあるので誰かが押せばいいのにな、と思うのだ。この習慣が大学ごとに違うのか、時代によって違うのかについては、私の経験だけでは判断できない。大学教員の皆さま、お勤め先ではいかがだろうか(もちろん、大学によっては「集中管理」のために教室では操作できないかもしれない)。なお、最初の勤務校では学生は高い授業料を払っているのだからエアコン使用は権利とでも言わんばかりで、サークルで利用したり単に暇な時間を過ごしたりする空き教室のスイッチをすぐに操作するので夏は涼しく冬は暖かかった。それはそれで高騰する電気代という別の問題が生じるのが悩みどころではある。
かつてある場所で、このことは「主体性」の観点からよくFYEの論点の一つとされていた。どんなことでも何かを誰かに準備、提供してもらうのが当然であるというのではなく、自らできるようになれるといいよね、というテーマである。そのあまりにもささやかな行動の一つが教室に入ったらすぐに照明、冷暖房を操作することなのであった。「主体性」とは何か大掛かりな行動のことだけを射程に入れているわけでなく、そうした日常の行動も関係しているのだ。教員の中には教室を快適な空間にするのは教員の仕事であるとか主張なさる方もいるだろうけれども、そのことと学生が同じことをするのは両立しないわけではない。教員であれ学生であれ、先に教室に入った方がスイッチを押せばよいだけである。ともあれ、だから「主体性」がないのだという評価することが必要だというわけではなく、まずは、どうして照明や冷暖房をどうにかしようとはしないのかについて知りたいのである。とりあえず、思い付くのは以下の理由である。

  1. 高校で電気機器に触るのは教員だけだというルール、慣行があったので、それをそのまま踏襲している。
  2. 高校で電気機器に触るのはその当番の生徒または何かしらの事情に基づく特定の生徒だけだというルール、慣習があったので、それをそのまま踏襲している。
  3. 高校で電気機器に触ることは「同調圧力」のために難しいことだったので、それをそのまま踏襲している。
  4. 高校で電気機器がまったくなかった(ありえないか)。
  5. 家庭で電気機器に触るのは親や年長のきょうだいだけだというルール、慣行があったので、それをそのまま踏襲している(これも、ありえないか)。
  6. 電気機器に触ることなどは下々の仕事なので、高貴な立場の学生である私がするはずはない(ないない)。
  7. わざわざ電気機器に触らなくても、誰か他の学生がやってくれんじゃね。
  8. 仮に電気機器を触った場合、他の学生(特に、まったく知らないわけではなく顔は見たことはあるけれども、だからといって仲が良いというわけでもない学生)から苦情―寒すぎる、暗すぎる・・・―が寄せられそうで怖い。そんな立場になりたくない。
  9. コート着てるしスマホあるので、別に。何か問題でも。

この他にも理由はいくつかありそうなので、皆さまぜひ教えてください。なお、バ先(=アルバイト先)、大学を卒業して就職した先ではどうなのだろうか。他の従業員よりも先に出勤したら、照明を点けないのかな。仮に給料の貰えるところでは照明を点ける一方、高校や大学ではそうしないというならば、この違いは教育学における「学校文化」という問いになるのかもしれない。なんだか90分1コマの講義中の検討課題になってきた。