前任の日本工業大学においてチーム・ティーチングの一員として担当した「大学での創造的学び」等の初年次教育科目では、私がお声掛けした方だけで学外の研究者約20名にご参観頂いた。先週、ある美大の授業に関する記事をきっかけとして、どうしたわけかその感想をネット上で頂いたので紹介したい。
日工大で一度みた初年次教育もこれに通じるところがある。ある種の学生にはとても評判が悪いだろう。「こっちは学費を払ってる、ちゃんと“教えろ”」と。経済のタームを借りるなら、あなたは「ほっておかれる時間」を買ったのだ、と言うしかない。 https://t.co/ea7fZh0JHg
— mori naoto (@mnaoto) 2016年4月25日
ちがうな。正確に言わねば。この教師(たち)は決して「ほっておい」てない。「みなさん、ちょっと進め方が早すぎます」とひとりの先生が言う。しばらくして、べつの(「真打ちの」)先生がまた、「早すぎる」と言う。複数の教師が、同じことを言う。https://t.co/nX3JtCAyuV
— mori naoto (@mnaoto) 2016年4月25日
日工大のその授業についてはこの本の中でも言及しました。
— Naruse Takashi (@ihuru09) 2016年4月25日
アクティブラーニングとしてのPBLと探究的な学習 (アクティブラーニング・シリーズ) https://t.co/qcHaLMg5CA #Amazon
NITの授業見学から得たものは大きいとあらためて感じている。学生が「アクティブ」であることと教師の教授/提示行為の関係について以前より自覚的になった。
(匿名)
上から2つめの感想は美大の記事に関するものであるのだが、日本工業大学の初年次教育科目にも似ているという印象を持った。100〜300人の学生、数名の教員、数名の授業補助者(学外の、特にTA等の経験が豊かで教育に詳しい大学院生)が1つの教室にいる。教員、授業補助者たちはもちろん一言一句同じというわけではないけれども、しかし、進度が早過ぎる、早いことが必ずしも良いわけではない、じっくり自分で考える、他者に答えを求めないという趣旨のことを繰り返すことになる。このことは、教員、授業補助者が前もってそう言おうと決めた結果ではない。ただ、到達目標から逆算して考えた場合に、ほぼ毎回そうならざるを得ないというだけのことなのである。主体的に学習できるようになるということは、とりわけ高校まで要点プリント、穴埋め、暗記といった方法による学習で成功体験を積み上げてきた層にとってはそれほどまでに容易ではない。
惜しむらくは、「この授業には何の意味があるのかわからない」「プリントが配られないのはおかしい」という数名の学生やそれへの追従者による反対と、その反対をなぜだかネットスラングである「炎上」とラベル付けて行われた判断、教育諸学の研究者ではない他の教員に初年次教育科目を任せたいという意向等によって、現在この授業は存在していないとのことである。私としては「(授業の、または勉強そのものの)意味」とは何か、プリントがないのはなぜだという問いがせっかく学生から出てきたのであるから、それこそがまさにこの授業で問うことがらであり、とても素晴らしいという感想を持っていた。しかし、カリキュラムが窮屈な工学部としてはそうした問いを悠長に扱う時間はないようで、現在はこれとはまったく異なる、より「実学的」な初年次教育科目が元高校教頭の先生等によって進められているそうである。学生にとっては、FIYや日本語教育を専門とする大学教員よりも高校教諭の方が親しみやすいということでもあるのだろう*1。実際に親しみやすいかどうか、その親しみやすさには授業をやり過ごすことが簡単であるという意味がないかどうかについてはさておき、親しみやすさはユニバーサル段階における大学での重要な論点なのかもしれない。
ところで、私は2015年4月〜7月、100分×14回、授業をして(または、授業をしないふりをして)グループダイナミクスという言葉を思い出しながら教室で生じたことをただひたすらノートに取り続けていた。膨大な量のノートである。どちらかの出版社で本にするという構想はおそらくなくなってしまったのだろう。さて、このノートをどうしよう。
*1:大学に入学したのに高校教諭に教わるという疑問は残る。