さまざまなタイプのレポート課題

 著者の皆さまからお送り頂きました。ありがとうございます。

 私が特に関心をもったのは、以前から様々な機会でお世話になっている成瀬先生が執筆なさった第8章「レポート課題を分類する」である。
 まず、アカデミック・ライティング指導科目(AW科目)におけるレポート課題の特徴について検討している。この科目はその名のとおり、学術的な文章の作法を学ぶものである。大学によって、すべての授業回/一部の授業回をライティング指導に充てる場合、初年次教育の枠内にする/しない場合、学術的な文章に焦点を絞る/多様な文章を扱うなかで学術的な文章にも触れる場合など、その開講形態も多様であろう。そこで扱われるレポート課題の種類も多様でありつつ、しかし同時にAW科目でのそれは概ね「論証」を求めるという点は一致しているという。そして、とても煩雑なのだけれどもその「論証」の中身もまた多様であると指摘されている。そうした整理をふまえたうえで大学教員を対象とした聞き取り調査から、(AW科目ではない、一般の)文系のレポート課題は次の4点に分類されるという。第1に「説明型」であり、授業内容の理解度を評価するものである。論証の自由度は低く、主張内容の自由度も低い。第2に「応用型」であり、理論の適用や事例の抽出を評価するものである。論証の自由度は低いものの、主張内容の自由度は高い。第3に「意見型」であり、授業内容に関する意見や主張を評価するものである。論証の自由度は高いものの、主張内容の自由度は低い。第4に「探求型」であり、学生自身によって立てられた問いと、その問いに対する答えを評価するものである。当然のことながら、論証の自由度は高く、主張内容の自由度も高い。そして、以下のような提案が行われている。

 そこで、AW科目で求められるような、論証の中身に自由度があるようなレポートを「アカデミックレポート」、授業内容の理解度を確認するためのレポートを「学習レポート」と区別することを提案する。これまで「論証型レポート」と呼ばれていたものは、多くの場合このアカデミックレポートに該当するだろう。論証を最も広く取れば応用型も論証型レポートに分類できるが、応用型は論証部分の自由度が低いことから、(「アカデミック・レポート」とは異なる)「学習レポート」であるとすることが混乱を避けるためにも有益ではないだろうか。あとは、学習レポートの中で説明型と応用型があることだけが区別されれば、これまで見てきた混乱は防げるだろう。
p.169

 一つ一つの指摘は頷けるものであり勉強になった。そのうえで気になったことを2点整理してみる。まず、こうした分類の目的についてである。課題の背景は「多様なレポート課題が同じく「レポート」と呼ばれることで、教員のねらいがうまく学生に伝わらない」(p.155)であり、その問題の解決のために「そもそもレポート課題にはそのねらいに応じてある程度の区分があることを学生と教員が把握しておくことのほうがコミュニケーションを効率的に進めるためには有効ではないだろうか」(p.169)と主張されている。これはそのとおりであると理解する一方で、科目のねらいによってはそうではないこともあるだろう。たとえば、効率的なコミュニケーションに対してクリティカルな視点をもつことも必要であったり、ときにはその指示があまりにも漠然としていたりぼんやりとしていたりするレポート課題について事前に提示された分類に依拠することなく学生と教員で(まさにここでこそ面倒な)コミュニケーションをとって相互にすり合わせを行なったりすることも学習の目的となりえる。教員によってあらかじめ分類を定めてしまうのではなくて、学生が分類を検討することが必要となる場合もあるかもしれない(この分類自体がかなり理解の難しい概念であることも課題かもしれない)。
 次に、「評価」についてである。実は適切に検討されていた分類について「評価」という言葉が使われていない。既述の「評価」は私(二宮)によるパラフレーズである。レポート課題を分類する際には、教員が何をどのように「評価」する意図があるのかという観点も必要であるだろう。そこで私になりの分類されたレポート課題を「評価」の側面で見直してみると、どうやら2つのパターンが存在しそうである。第1のパターンは執筆されたレポートに対して、不足していることに着目する。バジル・バーンスティンであれば「パフォーマンス・モデル」と呼ぶだろう。「ここで強調は、獲得者の作品に何が欠けているかに置かれる。ここで獲得者がある家の絵を完成させたパフォーマンス的学級を考えてみよう。教師が語るのはおそらく「なんとすばらしい家でしょう。でも、煙突はどこにあるのでしょうか」。あるいはまた獲得者がある肖像を描いたとすれば、そのコメントはたぶん「とてもいいね。しかし君の人物は指が三本しかないかあ!」。強調がもし獲得者の作品に欠落しているものに置かれるとすれば、基準は顕在的かつ特種的(ママ)であり、獲得者は、正統的テクストをいかにして認知しまた実現するかをはっきり知らされるようになるだろう」(〈教育〉の社会学理論 〈新装版〉: 象徴統制、〈教育〉の言説、アイデンティティ (叢書・ウニベルシタス)初版、p.104)。たとえば、「説明型」は「パフォーマンス・モデル」に該当する。第2のパターンは執筆されたレポートに対して、あらかじめ定められた明確な基準に依拠することなく、できていることに着目する。すなわち、「コンペタンス・モデル」である。「ここで強調は、獲得者の作品に何かが存在しているかに置かれる、ここで一人の獲得者がある肖像を描いているコンペタンス的学級を考えてみよう。教師が語るのはおそらく「なんとすばらしい絵でしょう。どう思いますか」。教授言説の評価基準は、潜在的で分散的である。しかしながら、規制言説の基準(行動とマナーそして関係の基準)の方が、より顕在的であるだろう」(同上)。「探求型」は「コンペタンス・モデル」に該当する。一般的に、「パフォーマンス・モデル」は安上がりの、わかりやすいものであり、学習者が到達するべき目標が明示される。最近のレポート課題であれば、ルーブリックを用いる評価もそうであろう。他方、「コンペタンス・モデル」は費用対効果の良くない、わかりにくいものであり、しかし、学習者の裁量の幅が広いものである(厳密にいうと実はそうではないのだけれども)。そして、ここからは私の推測でしかないのだけれども、伝統的な文系の教員はどちらかといえば「コンペタンス・モデル」を好んでいたのかもしれない。提出されたレポートに対して「教員自身が考えられないような素晴らしい、指導内容を大幅に上回る内容」ゆえに優評価とするようなものである。伝統芸能の資格審査のようなものといってよく、それまでには考えられなかったようなことを新たに編み出したことに価値を認めるものでもある。しかし、大学教育の内容と方法についての検討が進むにつれて、明確な基準を有する「パフォーマンス・モデル」が採用されるようになる。自動車運転免許の試験のようなものである(もちろん、この両者に優劣があるわけではない)。このことは大学教育のいわゆる「大衆化」にも関係しているだろう。
 このようなことを考えつつも、提案された内容について勤務先の学生へ紹介してみる所存である。