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ともかく学際観念の支援を受けつつ、質疑応答がなされ、的確なコメントが発せられる。そのことによって、観念でしかなかった学際がまさにその場で現実化することになる。学際観念がその場を下支えし、発言を促すのだが、発言がなされ、やりとりがなされるまさにそのことによって、学際観念の正当性が再生産されていく。その場にいてこのような循環を経験した人が、学際に強い関心を抱くのは当然であるように思える。
33頁
学部生、大学院生がこのような経験ができる環境に入ることができればよいのだけれども、その一方で現代的な大学には興味関心の幅が極端に狭い学生や、そもそも学習全般への興味関心が低い学生もいる。有り体に言えば、京都大学の特定の学部で成功する企画を他の大学でも行うことにする場合に(実際に行う必要があるというわけではない)、その条件は何であるのかをFDとしては検討する課題が残されている。他の大学へ教員として就職する際、どのような準備が必要になるだろうか。
もう一つはこの企画に関する学部・研究科のアイデンティティに関することである。
本書でも何度か言及されたとおり、ミカタの活動動機の一つとして、総人・人環という組織のアイデンティティの脆弱さや、そこでなされている教育への不満を挙げることができる。結局は各専門分野ごとの指導が行われているという現実、いかにも「京大らしい」放任主義的な学生対応、あるいは、その荒野を生き抜いた一握りの成功者を教育成果として誇る素朴さ。こうした実態を学部生の頃に経験し、それに違和感を覚えたメンバーの思いが、ミカタを駆動させてきたことは間違いない。しかし、注意が必要なのは(略)この動機はミカタに参加した大学院生全員が抱いているものではないということだ。講義担当者の半数以上が総人以外の学部を卒業していることに鑑みれば、この動機を抱いているのはむしろ少数派といわなければならない。
254頁
近年の京大教職員による学生の課外活動への対応や学生寮対応を見る限り、実のところはすでに「自由な京大」のイメージは払拭されるべきなのかもしれないけれども、学生の自主性をなるべく尊重するべきだ(主体性とまではいえないか)という大学のアイデンティティは関係者の間にはまだ残されているだろう。しかし、他の大学から進学した大学院生にとってはまったく未知の文化である。その点については第10章で学際系学部の論点に絡めて少し言及されてはいるものの、オフィシャルな「京大変人講座」のように「いかにも京大」を前面に出すと興ざめする大学院生はいるであろう一方で、その「いかにも京大」の規範こそがこの企画を支えているようにも読める。ないものねだりでしかないものの、この「イカ京」との距離感やそれへの評価を各執筆者がどのように捉えていたのかを知りたいのである。このことは極めて大きい課題であるものの旧制三高以来学生が獲得してきた「教養」とは結局何であったのか、何であるべきなのかという問いに答えるためのよすがになりそうなのである。