大学におけるキャンセル・カルチャー

 米国の一部の大学で生じている、学生間あるいは学生ー教員間の政治的な葛藤についての説明が行われている。タイトルを読んだときには保守的な立場からの論評であると推測したものの、必ずしもそうした単純なバイアスがかかった分析ではなかった。トラブルは次のような経緯を辿るという。

 2017年以降の大学生活に影響を及ぼしている二極化サイクルは、通常、この流れで起きている。

1.左派の教授が、SNS、主要メディア、講義、または(頻度は低いが)学会誌で、挑発的または扇動的な発言、または執筆をする。それらの意見は往々にして、キャンパス外の右翼系集団や政治家による不当行為と認識されているものへの反発である。動画やスクリーンショットSNS上で共有される。
2.右翼系メディアがネタを取り上げ、激怒をかき立てるやり方で伝える。背景説明を取り除き、事実を歪めることもある。
3.このネタを聞きつけた数十人、もしくは数百人がSNS上で怒りのコメントをする、または問題となっている教授にメールを送る。それらには人種差別的、性差別的な非難が込められがちで、レイプや殺害の脅迫がなされることもある。大学側に公的に教授の解雇要求を出す人もいる。
4.一方で、大学側はその教授を弁護せず、調査が実施される、あるいは教授が一時休暇を取らされることもある。身分保障のない教授は解雇や契約更新されないリスクが高い。
5.この経緯を耳にした党支持者の大多数は、これは自分が相手側の党に抱いている最悪な信念を確信させるものだと感じる。そして、右派は件の教授が発言または執筆した内容に、左派はそれに対する人種差別的/性差別的な反応に、それぞれ着目する。お互いの怒りが強固となり、両側の人々がこのサイクルを繰り返していく。
(略) 
 ちょっとした失言や些細な誤解が、あらゆる情報媒体で誹謗中傷や脅迫をもたらしかねない今、多くの教授は、教鞭を採るにも講演するにも、以前よりはるかに用心するようになったと語る。さらに、新たに陰湿な問題も出てきている。教員たちの政治的信条に注目が集まっているのだ。
pp. 193-195

そのうえで、大学が守るべき表現の自由のあり方について、「表現の自由の原則に関するシカゴ大学の声明」が参考になるとする。

A History of Commitment to Free Expression
freeexpression.uchicago.edu

Report of the Committee on Freedom of Expression
https://provost.uchicago.edu/sites/default/files/documents/reports/FOECommitteeReport.pdf

 もちろん米国と日本とでは事情が異なる。現代の日本においてキャンパス内で暴力的に講演会が中止されることや、学長室や教員研究室へ抗議のために学生が集まることはあまりないだろう(インターネット、とりわけSNS上では上記のサイクルと似たような葛藤は生じている)。むしろ、上記に関連する次の2点のことがみられるという印象をもっている。
 第1に、第1章「脆弱性のエセ真理:困難な経験は人を弱くする」で紹介される、「危険」や「安全」という言葉の意味の転換である。かつては身体が脅かされるときに「危険」や「安全ではない」と表現されたのに対して、現代では感情が脅かされるときにそれらの言葉が使われるという。特定の学問分野においては、いわゆる「心理主義(化)」として馴染み深いものであるだろう。学生の「心」の「安全」を保つことが、キャンパス内で重要とされる。そのためには、けっして教員や事務職員は学生に対して「不快」な思いをさせてはいけないということになる。このことは現代の一般的なコミュニケーションとしては当然のことかもしれない。しかしながら、大学で学問を学ぶ際には、分野によってはどうしても「気持ち悪い」、「不愉快」、「信じられない」、「受け入れられない」ような思想、文化、価値観、実態について知らなければならないことがある。筆者らは「困難な経験は人を強くする」という理念をもっているものの、「困難な経験は人を弱くする」立場からはそうした学問は拒絶の対象になってしまう。たとえば、仮に私(二宮)が教育社会学の講義でいじめや教育格差などの社会問題に言及したとすると、学生の中には自らの境遇を思い起こして感情を「危険」に晒されたと思うかもしれない。上記のサイクルであれば、教員は調査の対象になったうえで、一時休暇や解雇ということにもなり得る。私がかつての勤務先で「毎日の授業は明るく楽しく!」、「絶対に学生を不快にさせるような内容を扱ってはいけない!」と教わったことを思い出すのである。
 第2に、第10章「大学の官僚主義が安全イズムを助長する」で指摘される、事務職員主導の大学運営に関する問題である。Clark Kerrによる「マルチバーシティ」論を引用して、教育研究の共同体ではなく納税者、企業などに対してサービスを行う内部の矛盾を含む寄り合い所帯になったために、それらを管理するための事務職員の数が大幅に増えるとともにその権限が増強されたこと、さらに、Benjamin Ginsberg の
The Fall of the Faculty: Ginsberg, Benjamin: 9780199975433: Amazon.com: Books から事務職員の専門性の確立により、新たな問題が生じるとそれへ対応するためにさらに新規の事務部局が立ち上がり、同時に、事務仕事をせずに済む教員はそれを好ましくさえ思うことを指摘する。事務職員は教員とは異なってビジネスとして大学経営を捉える傾向があるため、ビジネスの関係者に対して過剰な対応をすることもある。

 学生をお客様とみなす風潮によって多くのことに説明がつくが、ノーザン・ミシガン大学で起きたことや、「お客様」が聴く講演を制限しようとする大学職員の考えまでは説明できない。この点を理解するには、悪評が立つことへの恐怖、訴訟を起こされることへの脅威など、大学職員に作用している他の力を理解する必要がある。大学職員はあらゆる方面から指示責めに逢っているため(学内の弁護士、外部のリスク管理専門家、広報部、職員の上層部から)、人身損害の訴訟から、不当解雇、知的財産、不法死亡訴訟など、ありとあらゆる分野における大学側の法的責任が大きくならないように制限しなければならない。これが、職員が学生の言動をやたらと規制したがる理由の1つだ。
pp. 277-278

日本の事例の一つとしては京都大学のタテカンをめぐる葛藤であろう。タテカンを「不快」とみなす関係者が現れることを事前に防ごうとする「官僚主義」、「安全イズム」があるようにも思われる。また、私の経験では、かつての勤務先でコミュニケーションのための笑顔が「馬鹿にされた」と捉えられて事務部局で案件化したことがあり、それ以降、講義中にはけっして笑わないという笑えない状況になったことがある。大学がもつ相互に両立しない価値意識、教員ではない事務職員の「専門家」が増えていきそれが伝統的な教員の価値観と齟齬を生み出すこと、これらは私の研究課題そのものでありすぐにはどうしたらよいかわからない。