品質保証国家とデータ

測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?

測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?

 「はじめに」に書かれているように、筆者は歴史学者であるものの、大学で管理運営の仕事をするようになったため、組織が「測定」を要求されることに関する問題に関心をもったという。

ほどなく、私は各部の活動についてもっと多くの統計的情報を求めるアンケートに応えるのに時間の大部分を割くようになり、研究や教育、職員の指導といった仕事に使える時間を取られてしまった。卒業する学部生の実績を評価する新しい尺度が作られたが、それまでの測定ツール、つまりは成績に対して、何か有益な洞察を提供してくれるわけでもなかった。私は、職員の手を煩わせずにこの作業を手早く済ませる方法を編み出した。大学が出した成績を、この評価のために作られた4段階評価に換算するのだ。やがて、この情報を集めて処理する作業のために、大学ではそれまで以上に多くのデータ専門家を雇わなければならなくなった(その後、評価部門の統括責任者を任命するまでになった)。
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 データ専門家とはインスティテューショナル・リサーチを行う担当者のことであろう。この担当者が進めた仕事に対して、部分的には役に立ったという評価を与えているものの、全体としては否定的にみなしているようでもある。大学における「新しい専門職」に対する冷めたまなざしともいえる。それはともかく本書が事例として紹介する大学、学校、医療、警察、軍、ビジネスと金融、慈善事業と対外援助などの各領域で行われるようになった「測定」は、Neaveによる「評価国家」論、すなわち、品質を保証する国家において必要とされてきた営為である。「新自由主義」、「ニューパブリックマネジメント」とともに、その推進者、批判的検討者の両方から考察の対象とされてきた。たとえば、町村敬志先生による科研

「評価国家の構造と動態―『新しい介入主義』分析の構想」
kaken.nii.ac.jp

においても、検討が行われている。
 私が本書を読んで理解できていないことは、事例に挙げられている大学と学校(高校までの各段階の学校)における「測定」と「(教育)評価」の違いと、それらと関わりを持つ「選抜」に関する筆者の主張である。「測定」に焦点を絞ることによって、評価国家を批判的に捉えることには成功しているといえるだろう。他方、大学と学校には「(教育)評価」というものがあって、学習の進捗のために必要な営為である。しかし、本書では「測定」と関連しているはずの「(教育)評価」への言及があまりないために、「(教育)評価」さえも否定しているようにもみえることがある。また、メリトクラシーに対する筆者の理解についてもう少しわかりたい。筆者はリメディアル教育を強く否定して、大学入学者の学力不足を嘆き「選抜」が機能していないことを問題視する一方で、「選抜」の内容や方法を初発の問題関心であった「測定」と関連させて論じているわけではない。既述の町村先生の科研研究概要によれば「テクノロジーとしての評価のメカニズムには、各団体・個人を、その政治的・イデオロギー的志向性とは別に、その『能力』に基づいて序列づけていく手続きが内蔵されている」ということなのであるが、この理解は妥当なものであるだろうか。
 もう一度、「大学における教育研究活動の評価に関する調査研究(文部科学省平成23年度先導的大学改革推進委託事業)」全編、特に、私自身が書いたはずの同報告書所収、広田・二宮「評価に関する議論の整理と今後の課題」を読み直してみようと思う。


「大学における教育研究活動の評価に関する調査研究(文部科学省平成23年度先導的大学改革推進委託事業)」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/03/01/1330644_1.pdf