大学教育の成果として心理学や経営学で研究されてきた「コンピテンシー」を用いることの難しさ/虚しさについて、院生の頃からずっと考えてきた。そこで、今年の大学教育学会第42回大会(2020年)において、「大学生を対象とするコンピテンシー・ディクショナリーの課題」というタイトルで報告する予定であったものの、Covid-19問題によって「要旨集収録をもって発表に代える」ことになってしまった。 学会発表ができなかったことによってモヤモヤした思いを抱えていた一方で別のまったく異なる研究課題へ取り組んでいたところ、教育学の分野で「コンピテンシー」を扱う文献を偶然発見することになった。こうした状況を「セレンディピティ」というのだったか。
さて、その文献とは次のものである。
岡田了祐・堀田諭、2020、『コンピテンシー時代における評価研究の拡張に関する基礎的研究: J・レイヴンのコンピテンス論を手がかりとして」『人間発達研究』(お茶の水女子大学)34、17-38
ci.nii.ac.jp
以下は私なりのメモである。
Ⅰ.問題の所在―コンピテンシー時代の要素主義批判とその代替案の模索―(pp.17-18)
コンピテンシーに基づく教育改革の進行
DeSeCo、学士力・・・
しかし、その実践・研修・評価へは危険性が指摘されている → 「要素主義」
そもそものコンピテンスは行動心理学者マクレランドによるもの
経営学、心理学で研究
ところで、教育学とその関連諸学ではバーンスティンの「見えない」/「見える」分類がある
チョムスキー、ピアジェ、レヴィ=ストロース・・・
本稿の目的:マクレランドを批判した心理学者レイヴンの検討
→ 「要素主義」の批判
Ⅱ.コンピテンス論の批判的検討―「マクレランドの伝統」批判とその教育的意義―(pp.17-20)
(1) レイヴンによる「マクレランドの伝統」の解体
レイヴンによるとマクレランド以降の心理測定方法には3つの瑕疵がある
脱文脈化、一般化・階層化、動機や価値との乖離
(2) 教育的意義
実のところ上記3つの瑕疵については教育学、とりわけ教育評価論でも論点とされ続けてきた
評価可能なもの/評価不可能なもの(評価しにくいもの)
パフォーマンス評価・ルーブリック評価/見えないものとしてのコンピテンス
Ⅲ.コンピテンシーの二つの捉え方―一般化と個別化―(pp.20-26)
(1) スペンサーらのコンピテンシーの捉え方―一般化―
「マクレランドの伝統」に位置付けられるスペンサーらの研究
コンピテンシー・ディクショナリー = 多くの職務で卓越した業績を予測する尺度・基準のセット
このディクショナリーは尺度(低~高)があることが特徴
(2) レイヴンのコンピテンシーの捉え方―個別化―
コンピテンスの評価において、構成要素と価値の関係を不可分であるとみなす
同時に、評価プロセスと社会的文脈の関係も不可分であるとみなす
そのうえで、人間の行動は能力、動機、環境の3つの結果として生じることを前提とする
レイヴンのコンピテンスモデル
横軸(達成、親和、パワー)×縦軸(認知、情動、意欲、習慣と経験)
ある人物が重視する行動スタイル、効果的な行動の構成要素の識別
得られたデータからの記述的言明
Ⅳ.レイヴンのコンピテンス論の教育・評価研究への可能性(pp.27-30)
(1) 小括
個人のコンピテンスの捉え方
スペンサーら(以下、ス):要素的・一尺度的
レイヴン(以下、レ):総合的
具体的な評価の手法
ス:行動結果面接+ディクショナリー
レ:二次元グリッド+記述文
状況や文脈
ス:職場などの特殊な課題状況における限定的な文脈
レ:個人特有のコンピテンシーが発揮される特定の文脈
評価観
ス:尺度内での客観性や厳密性を重視(内的整合性を重視)
レ:個人特有のコンピテンシーを重視(内的整合性にとらわれない)
(2) 人間観―格差か、個性化か―
スペンサーら:「優れている人間」と「優れていない人間」の選別、個人の序列化
結果としてのパフォーマンスとコンピテンスの同一視
レイヴン:公共性の再編に向けた他者や社会的文脈との交差を含んだ個性化
評価者が「見える」ものは被評価者が持っている「見えない」ものはあくまでも同じではない
(3) 社会観―評価によって創られる二つの公共性―
スペンサーら:序列づけ、優劣、競争・選抜、階層化
レイヴン:異なる人間の在り様をそのまま把握、共同体の発展への貢献
Ⅴ.結語―本件旧の異議と課題―(pp.30-32)
本論文の意義
「要素主義」を克服 ← レイヴンのコンピテンシー
評価観の整理
学習者・評価者の関係性への着目
「マクレランドの伝統」の相対化
マクレランドとスペンサーのコンピテンシーの特徴は、職業の現場における選抜と配置に関して有用であるということなのだろう。とりわけ、職務分析、職務給・役割給で「割り切る」ことのできない何らかの慣行がある場合に、評価の観点を「見える化」したうえで一般化しようとする。個々人の動機や価値が問われることはない。なぜならそれは組織利益の追求に集約できるからである。もし、この理解が妥当であるならば、やはり大学教育の成果として「コンピテンシー」を利用することは難しいし虚しいものである。選抜と配置それ自体が目的にはならないからである。そのうえで、私はレイヴンのコンピテンシーについてはまだ理解ができていない。バーンスティンがいう「コンペタンス・モデル」、たとえばその評価に関して「ここで強調は、獲得者の作品に何が存在しているかに置かれる」(『〈教育〉の社会学理論』訳書p.104)をより具体化しようとするものであるようにも読める。評価者に高い専門性が求められ、コストや負荷が高いものである。それゆえに、公教育においてはなかなか普及しえない。たとえば、大学生によるコンピテンシーの自己評価もコストが極めて低いものである。その問題を少しでも解決することができるということになるだろうか。