新書(だけ)で読む能力主義[後編]

 研究室の書架にある新書縛り能力主義論、後編である[後編]。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

「選抜」についてですが、このテーマに関して最初に理解しておくべきは、先述したように、学力の測定・評価には必ず“あいまいさ”と“恣意性”がつきものだということです(広田2011参照)。つまり、「能力」は本来、正確に測ることなどできない上に、何をもって能力があるとするかは、かなり恣意的だということです。
(略)
選抜(およびそれに伴う序列化)は、必ずしもその人の「能力」を十分に反映したものではないということを、まずはしっかりと理解しておく必要があります。というより、本来能力とは多様なものであるにもかかわらず、これを一元的な評価軸において序列化してしまうのは、産業主義の時代であればまだしも、ポスト産業社会の現代においてはきわめて無理のある話なのです。
とはいえ、選抜というものは、少子化に伴って少しずつ減少してはいるものの、どうしてもある程度は存在し続けるものです。
143-144頁

「能力」は本来多元的なものであるものの、産業化に対応して一元的であると把握されてきたこと、そして、その過程において、一部の「能力」だけが恣意的に切り取られて高く評価されてきたことについて批判的な考察が示されている。ただし、著者は従来の教育関係者とは異なって、財界、企業が求める「能力」を全否定しているわけではない。現代の企業においては「訓練されやすい」という力量(?)よりも「学び続ける力」が必要であり、それは確かに階級・階層による格差を反映しやすいという重大な問題があるとはいえ、公教育で育てる力量の一つとして矛盾するものではない、という認識を示している。


暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)

本書の基本的スタンスは、

いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければらない」という議論それ自体である。

というものである。ではそうした見方が妥当だとすると、なぜこのような渇望が生み出されるのだろうか。その答えを導き出すために私が用意しているロジックは次の5つの命題からなる。
命題1 いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない
命題2 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される
命題3 メリトクラシーは反省的に常に問い直され、批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシー再帰性
命題4 後期近代ではメリトクラシー再帰性はこれまで以上に高まる
命題5 現代社会における「新しい能力」をめぐる議論は、メリトクラシー再帰性の高まりを示す現象である
47-48頁

著者は社会学における後期近代論を参照しつつ、一部には葛藤理論も視野に入れながら、現代の日本や、日本だけではない「新しい能力」論の流行について考察している。ギデンズ、ベックを読んだことがあればお馴染みの議論である(私の講義を履修した学生は、よく聞かされましたよね(笑。「ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、それよりも昔のご先祖様の時代からそうだったのだから、そうなんだよ」ではもはや納得できない時代だ)。これほどまで社会学理論を援用して「新しい能力」そのものというよりは、それが流行する文脈について迫った類書はないだろう。
私が知りたかったことの一つは、かつての教育関係者の関心との接続についてである。財界、企業由来の能力主義への否定という論点については、後期近代論という大きな枠組みを採用することによってとりあえず射程内に入っていると言えそうである。一元的能力主義観に捕捉されてしまうことのない「『真の学力(ほんとうの知識・教養)』というものがあるはずだ、公教育はそれを価値とするべきだ」といった主張についても、再帰的近代のテーマに合いそうである。他方、伝統的な従来の能力平等・差別忌避論に対して、何を言ったことになるのか評価が難しい。能力平等・差別忌避論は著者によって反論の対象の一つにされている(葛藤理論的)メリトクラシー幻想論と似ているようで異なる主張である。「能力の社会的構成」は社会学者によってはわかりやすい概念であるものの、教育関係者はどのように受けとめるだろうか。
また、かつての教育関係者による一元的能力主義批判に対しては、本書が検討の対象にしてきたような「新しい能力」の出現によって、あるいは、それに関連する「脱・競争(の教育)」とでも言うべき競争的秩序の部分的溶解によって、幸せな社会が到来したと言えるのかという問いを思いつく。コミュ力(コミュニケーション能力)の重視は、決して偏差値序列の秩序を救ったことにはならない、新たなディストピアの出現であるようにも見えるのである。