新書(だけ)で読む能力主義[前編]

 学者は「能力主義」についてどのようなことを語ってきたのか、研究室の書架にある新書縛りで確認してみよう。[前編]

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

この教育白書発表の翌六三年、高度経済成長下の教育政策の基調となった、経済審議会の答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出された。
そこでは、経済発展は国民生活向上のためにすすめられるのであり、それを担う人的能力の開発が政策の目的であるとされる。そして、「労働力としての人的能力といっても、その基調には生活向上への希求と人間尊重の精神が貫かれていなければならないし、また、われわれの考え方にはそれが貫かれているのである」という。
この言葉の限りでは異論のある人はいないだろう。たしかに以後、国民の物的生活は向上していく。しかしどのようにすすめられてかが問題である。答申には、「端的にいえば、教育においても、社会においても、能力主義を徹底するということである」、とまことに端的に記されていた。さらに具体的には「ハイタレント・マンパワー」の養成と尊重の必要を説き、一方、それぞれが自らの「能力・適性」に応じた教育を受け、それによって得た職業能力を評価・活用されるのがよいという教育観・職業意識に徹することを求めていた。
222-223頁

こうした政府の主張や、それに基づく政策に対して、教育学者、教育現場の一部は否定的であった。教育は経済の従属物ではない、ハイタレントではない一般の青年はどうなるのか、「能力・適性」に応じる教育は差別的である、などとして反対したのである。さて、その答申から約十数年、財界も喜ぶであろう職業高校を増設しよう、多様な「能力」は細かい分野毎に分かれた職業高校で養成されるはずだ、いや、しかしながら、企業は景気が良いので「能力」に固執することなく大勢の青年を採用したいし、そもそも企業内教育訓練があるから高校での職業教育はあまり要らなかった、採用選考の基準は特定の「狭い」「能力」というよりは高校の入試難易度や実績関係だ、それこそが「訓練可能性」の代替指標なのだ、職業高校は学習があまり得意ではない生徒の進学先なのだ、という主張―「一元的能力主義」観に基づく主張―が行われるようになる。生徒、親の多くが普通高校を望み、教育学者の一部も同様に一見すると財界の従属物ではないようなそれを期待する。とりいそぎ、まず、ここで確認したいことは、教育の分野で「能力主義」(単なる「能力」ではなく)が取り上げられたのは、政府・財界が主張する経済成長に付随する文脈であった。

現代社会と教育 (岩波新書)

現代社会と教育 (岩波新書)

産業の教育支配の潮流と呼応して想起された能力主義は、具体的には、社会と教育の場に競争の原理を貫徹させる主張であった。
(略)
ここから引き出される学校教育がどんな姿になるのか予想はつこう。繰り返されるテスト、一点を争う競争、能力別学級編成、そしてできる子には豊かな教育を、できない子は切り捨て、分に甘んじることを教え、そのような人間の見方に慣れさせるといった学校・学級経営のイメージが結ばれてこよう。
(略)
学校化社会は、人間能力の学校化をすすめる。学校が、価値あるものと評価する能力、それはテストで測られ、偏差値に還元される学力、それも算数・数学ないしは英語や感じの語彙数によって代表される。そして、それらの点数尺度を規準にして序列化され、能力別にクラス分けされるなかで、人間としての値うちもまた点数序列へと同一化されていく。
(略)
私たちは、このような知の序列化と知による支配と結びつく現代能力主義を厳しく批判しつつ、その上で、人間的能力の多様さと、人間にとっての知の根本的な意味をとらえ直し、人間が学ぶ存在であることの意味を深くとらえ直すことが必要である。
99-112頁

ここでは、財界主導の「能力主義」は教育現場にまで到達して、人間の価値までも入試偏差値一つで測られているということを否定している。荒れる学校、「登校拒否」、家庭内暴力といった当時の社会問題の背景には、たとえばここに挙げられているような競争的な秩序があるはずだという問題提起である。そのうえで、一元的能力主義からの脱却の必要性が主張されている。一元的―多元的、財界従属的―教育固有的・教育価値という二つの軸があったといえるだろうか。

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日本の能力主義管理の特徴を把握しようとするとき、まず前提として留意すべきは、私たちの国には一定範囲の仕事遂行予定した技能の社会的な定義とランク付けがなく、したがって仕事上必要な能力というのもひっきょう個別企業ごとの従業員に対する要請としてあらわれるほかないということである。
企業の要請は、職務割り当てと配置の変動に応じて柔軟で弾力的に働くことのできる潜在能力の開発と発揮を基本とする。この潜在能力の評価と、多面的な側面を持つ人間そのものの評価との距離はそう遠くない。経営者は能力主義の日本型を擁護し始めた頃、日経連は、能力は体力、適性、知識、経験、性格、意欲という六つの要素から成ると述べたものである(日経連1969)。また石田光男氏は、日本の職場で高く評価される人とは、たんに仕事が横よくできるだけの人ではなく、「職務に対する態度姿勢、接する人々への態度姿勢」のあり方を含む、良い「人柄」高い「人格」を備えた人のことであると観察し(石田199)、この有りようを身分制や階級性を脱した「日本の柔らかな人間観」にもとづくものと称揚している。
日経連と石田光男氏のいうところは、前節で私が日本的能力のいま一つ要素とした〈生活態度としての能力〉と言う指摘に近い。そして、この種の日本的性格に対しては私は石田光男氏とまったく評価を異にするけれども、その点はさておき、ここから必然的に導かれる日本型能力主義を次の特徴考えてみよう。それは、「横並びの集団主義」という通説とは逆に、日本企業の従業員は個別企業によって個人別に評価され処遇されるということである。要するに、職務割当てや配置も、評価も処遇も、「人によって違う」のだ。少なくとも日本の労務管理の理念では、フレキシビリティー・潜在能力・人格の重視に続く論理的結果帰結として評価は個人別になる。同じ職種の人は、一律に「横並び」で処遇される欧米ノンエリート労働者の世界とはここが最も対照的なのである。どちらがより「能力主義的」かはくりかえすまでもあるまい。
46-47頁

教育から離れて、社会政策・労使関係論における「能力主義」である。熊沢は「〈生活態度としての能力〉」が従業員に対して求められていたとする。この点に関しては、企業で働く現場に焦点を絞った議論であるため、教育に対する影響について(もちろん、熊沢が考える必要があるわけではない)その分野の専門家によってあまり考えられてはこなかったかもしれない。「仕事第一」「会社人間」として振る舞うための「〈生活態度としての能力〉」の要請は実のところ、先ほど紹介した言葉では「学校・学級経営のイメージ」の中にある児童・生徒像に向けられていたものとあまり変わらないかもしれない。たとえば、いわゆる教育労働運動が退潮して以降、指導者に対して対抗する、団結するといったエートスをそこに見出すことは難しい。指導者に対して柔軟に適応することは、むしろ日本の学校の得意とすることであろう。(政府・)財界・企業が明示的に求めたわけではないはずの「〈生活態度としての能力〉」が学校現場で醸成されていたといえるだろうか。なお、当時の日経連の「六要素」は荒削りながらも興味深い。体力、性格も能力なのであるから、釣りバカ日誌の浜崎伝助も評価されるだろう。
さて、かつての論者が教育における「能力主義」を否定的に理解した理由は、第一にまさしくその一部が財界・企業由来のであったこと、第二に学校現場での差別、競争を促進させるからであった。この二つは現代の「能力主義」批判論にも通ずるものがあるだろうか。もし、そうだとすると、特に、その第二の点を相対化した次の新書も確認しておきたい。

学力による序列化を「能力主義」と見なし、そのような教育を「差別=選別教育」として批判する。このような見方は、これほど先鋭的ではないにしても、私たちが日本の教育を問題視する際の、基底的な認識枠組みになっている。
(略)
たしかに私たちは、生徒を学力や成績によって差異的に処遇したり、成績によって振り分ける事態をさして、「能力主義的差別」あるいは「差別=選別教育」と見る。しかしながら、国際比較の視点から見ると、こうした「差別」のとらえ方は、かならずしもどの社会にも共通する認識のあり方ではない。
(略)
欧米の研究において「差別」として扱われる問題は、まさに辞書的な意味と照応した、階級や人種・民族、性別などのカテゴリカルな違いをもとに、差異的な処遇が行われている場合である。個人の能力差や業績の差異にもとづく差異的処遇までを含めて「差別」といっているわけではない。
(略)
固定的ではない、しかも「真の学力」とはいえない成績によって生徒を序列化する教育。しそれによって下位に置かれた生徒たちに差別感を与える教育。成績や能力による差異かを差別教育として批判する認識枠組みは、「能力主義」という言葉が出現する以前に、すでに形成され、教研集会の参加教師たちの間に広く共有されていた。つまり、能力の可変性への信仰と、テストで測られる学力を「真の学力」とはみない学力観とが広まり、差別感を問題視する差別教育の認識枠組みとむすびつくことによって、今日私たちが共有している能力主義的―差別教育観がつくられたのである。
155-180頁

児童・生徒が持っている「能力」は平等であって、誰でもがんばれば学校、ひいては、それを通じて職業社会で成功できると思い込むようになる、そんな「大衆教育社会」が成立した。つまり、競争が否定されてきた一方で、同時にかえって、平等なのだからこそ学歴獲得競争が盛んになるというパラドクスが指摘されているのである。
教育関係者が「能力主義」という言葉を前にしたとき―ヤングの小説は別として―、財界、企業由来の側面に関心が行き、あるいは、能力平等・差別忌避論の側面に着目することがある。これらのことがらは現代ではどのように言及されているだろうか。新書縛り能力主義論、後編に続く(ただし、現時点ではオチが何も見つかっていない。キーワードは、「真の学力(知識・教養)」、「脱・競争(の教育)」といったところか)。