工業高校とイノベーション

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筆者は、大阪府内の工業高校(中等教育)において長年勤務し、そこで、「課題研究」や課外活動を通じて、学生(二宮注:生徒のことだろうか)とともに実践し、これまでに10を超える発明に至った。特許などは基本的に公開して、実際に民間企業で実用化されているものも多い。その長年の経験の観察から、創造性教育において、受講する生徒には一定のパターンがあり、また受講後、多くの生徒が積極的な性格となり、そして発明・発見に至るプロセスには共通のパターンが多くみられることがわかった。
そこで本書では、柔軟な創造力形成が期待できる中等教育段階に着眼し、中等教育機関における創造性教育の現状と必要性を検証するとともに、創造性の定義づけをおこなう。そして、創造的人材の育成に向け創造性教育の実践的展開と成果から、産業教育論、経営学の知見を援用しながら、その方法論と有効性を明らかにすることを目的とする。
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本書は工業高校における実践研究として極めて優れた論考といえるだろう。高校の授業「課題研究(教科工業)」とそれに関連する課外活動に焦点を絞って、そこで生じる製品開発のイノベーションの特徴を産業教育論と経営学の枠組みを参照しつつ明確に描き出しているのである。
興味深いことに、本書では産業教育論を除いて教育学に対する言及がほとんどない。このことはおそらく教育学で参考にするべき文献があまり存在していないことに起因しているのだろうか。今となっては奇異に思われるかもしれないが、工業教育や産業教育においてそれぞれの分野では理論的、実践的な研究蓄積が積み重ねられてきた一方で、教育学がそれらに関心を持って検討するということはあまりなかった。教科が成立した事情の特質からして社会や公民が理科や専門科目に関するテーマよりも強く好まれてきたり、文部省・各種審議会・財界対日教組/国家の教育権対国民の教育権といった論争に関連して、それぞれの対立の後者の立場を取る教育諸学者が産業教育を前者に位置づけたりしてきたためであるといえるだろうか。また、本書の筆者も述べている工業高校への不本意入学者の増加についても、現時点から顧みれば、60年代に人気のあった工業高校が、70年代以降に徐々に偏差値序列の中に組み込まれて人気を落としていくようになる過程で*1普通高校(この言葉は誤解を招くことがある。「特に変わっていない」「ありふれた」「あたりまえ」という意味での「ふつー」という意味ではないので、ぜひ調べてみよう)への進学、その学校が足りない場合には専門高校(当時で言えば職業高校)ではなく普通高校の増設を願う生徒やその親に対して贔屓をした教育学の問題であったともいえるだろう―さすがに、労働に関することがらを卑しいものとみなす知識人固有の問題とまでは言わないものの。本書のキーワードは経営学由来のものが多く、そのために教育学者は本書を手に取る機会がないように思われる。しかし、その縁のなさは教育学の展開―それは、他分野の学問を嫌うという性格も含まれる―に由来しているものであって、そのことについて自省するためにもぜひ読んでおきたいのである。
私が関心を持った点を2つ挙げる。まず、第1に、筆者が40年間あまり変わっていない工業高校のカリキュラムについて問題視する点である。全国の高校生総数に占める工業科の生徒数の割合はこの20年ほど9%弱でずっと安定している、「就職内定率ほぼ100%」、大学に進学する場合でも推薦やAO入試などの利用によって「進学内定率ほぼ100%」が達成されている、それらのことからカリキュラムを変えるための動機がないのではないか、と推測されている。そのうえで、次のような問題が提起される。

しかし、求人の内容をみればその本質がみえてくる。大手製造業は新規高卒を見送るところが増加し、職種をみても専門的な知識を必要とする技術職ではなく、一般作業のような職務が増えてきている。これは企業規模が大きくなるほど顕著になる。ある中堅製造業者の人事部長は、特別な知識をもたず日本に出稼ぎに来る外国人労働者でも対応できる作業が8割あるという。つまり、製造ラインの自動化や産業機械の発達により、特別な技術や技能の不要な一般作業の割合が増えているのである。しいていえば工業高校卒業生は作業服を着るのに抵抗がないとか、大きな声で挨拶ができるとか、スパナやレンチなど、工具の名前を知っているということが評価されている。しかしこれらは技術でも技能でもない。つまり、本来、産業教育のなかで重視されてきた技術・技能が評価の主体(二宮注:対象、焦点のことか)ではなくなってきたということである。
このことは現役教員の発言からも見て取れる。「工業高校出身者は元気に挨拶ができて作業服や帽子をきちっと身につけることができることが企業で高い評価を得ている」と宣伝するのである。製造作業に従事するということを考えれば、作業服を着こなすのは安全作業の見地からは当然のことである。挨拶はもっとも初期段階にあるコミュニケーションの手段であり、社会人として常識である。これが評価指標のようにいわれること自体が問題である。
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カリキュラムが変わらないのは、それだけ成熟した教科だということなのだろう。大学においても基礎的な工学の講義内容は(それは、実のところ工業高校の教科書と重なりを持っている)、戦前期のそれと変わっていないという話しを聞くこともある。したがって、私はカリキュラムについてはそれほど違和を覚えない一方、規律や立ち居ふるまいばかりが評価されるのはイノベーションという観点からはあまり好ましくないと考える(もっとも、普段私は挨拶をしない文系大学院生ばかりに会っているので、羨望の気持ちを持つこともある)。
第2に、筆者が「課題研究」を通じて「高校生という意識を払拭させる」と主張する点である。以下に見るように、もはやなんとなく想定される高校生の日常を超える負荷がかけられている。

評価について、「知識・技能」「意欲・態度」という点では、差がつくことがイメージできるであろう。しかし、「参加率」は授業でおこなわれることから、差異はないと思われるかもしれないが、実はそうではない。「課題研究」は年間3単位、つまり1週間の当たりの授業数が、50分の3コマということになる。無論、この時間では、製品開発などできるわけがない。実は、時間割上は50分×3コマであるが、実際には、毎日放課後、平均して3時間程度、土曜日は6時間程度の作業をおこなう。納期のひと月前あたりになると、放課後の作業時間が徐々に延長し、納期1週間前になると、放課後6時間、22時を超えることは恒例になっている。無論、教員は放課後の「残業」を強制しない。それゆえ「参加率」に差が出てくるのであるが、よほどの用事がなければ先に帰ることがないのも事実である。それぞれメンバーが自分の仕事を自覚し、納期を自覚すれば、おのずと時間は延長される。それとは逆に、集中が高まれば、作業中の時間の感覚は、かなり短縮されるのである。「学校に行っているのか、仕事に行っているのかわからない」。これまで何人もの生徒が、保護者にいわれたそうである。
118-119頁

このことは教育学で言えば、学習・評価観のパラダイム転換、「真正な学習」「真正な評価」につながる論点である。そのようなことは工業高校では以前から行われいたのであって、特に新しいことでもない。絶対的な納期があるのだから、それを守らなければならない、そのためには例に挙げられるような時間という資源を有効に利用しなければならない。この感覚は普通高校、あるいは、文系の大学ではなかなか身につかない―甘い「先生」は宿題の締切日を延長してくれる。他方、それは確かに「真正」である一方で、だからこそ教育社会学者からは過度の部活やアルバイトと同じ問題が指摘されるかもしれない。「残業」と表現されていることからもわかるように、ほんとうにそこは「現場」に近しい状況が再現されていて、ゆえに22時超えの作業が必要となる。このことは、「真正」性と「(保護されるべき対象への)教育」とのディレンマである。工業高校出身が企業から期待されるのはこうした姿勢が身についていることも一つの理由であるのだけれども、同時に、「納期」と「労働時間」を比較した際に前者を優先してしまうことの問題が覆い隠されてしまうこともあるだろう。
最後に、製品開発の一事例として「廃材燃料給湯器」の課題を紹介しよう。2011年3月中旬、ある工業高校の自動車部で被災地支援として何ができるかが話し合われた。過去に開発したものはいくつかあるものの、緊急に対応できるようなものはなかった。

何かできることはないか、テレビの画像をもとに出されたアイデアが、廃材を燃料として給湯する簡易のお風呂である。映像をみる限り燃料となる廃材は沢山あり、逆に処分しなければならない。飲料水は不足しているらしいが、場所によっては川や井戸の水がある。ペットボトルに入れて湯たんぽにするのであれば、汚れた水でも利用できる。震災後、はじめての活動日となる3日後。このことをメンバーと協議した。全員の賛同を得たあと、必要な機能を選定し、設計にとりかかった。避難所で寒さに震える人たちに、少しでも温かさを届けることが全員一致の目標となった。
3月15日火曜日、描き上げた図面をもとに、加工方法を確認した。設計に当たり出された条件は以下のとおりである。

1. 家庭用の風呂(200L)を1時間以内に沸かせること
2.現地では道具が不足しているため、廃材をできるだけ切断せず、投入できること
3.自動車が入れない場所でも設置できるよう、大人2人で移動が可能なこと
4.衝撃や水分に耐久性があること
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さて、実際にはどのような設計になっただろうか。この後の展開と合わせて、本書で実際に確認してほしい。

*1:「一元的序列化」である(乾彰夫、1990、『日本の教育と企業社会―一元的能力主義と現代の教育=社会構造 』大月書店より)