東洋経済のネット記事「教育困難大学」について

教育困難大学」に来る学生の残念な志望動機
必然的に起きる「5月病」に苦慮する教員たち
https://toyokeizai.net/articles/-/219604

この記事の筆者は修士を取得なさっているようなので、「動機の語彙」という概念を聞いたことがあるかもしれない。「動機」は個人の思考や行動の理由をリニアに説明するものではなく、その思考や行動の理由として社会的に納得されると思われる、制限された語彙のリストから選択して語られるにすぎないというものである。当該個人もそのようなコミュニケーションの在り様の中に埋め込まれているのである。


「動機の語彙」とは、たとえば次のように説明される。
C.W.ミルズとアメリカ公共社会: 動機の語彙論と平和思想

原因、理由、目的、価値、規範、納得等のうち何によって動機を同定するかによって、学説史の基本構図が描かれる。ミルズの動機の語彙概念は、原因論の否定という争点において理解されるものである。ミルズは、行為の原因”Why?"を心理的、生理的メカニズムから考える動機論に対し、行為の状況がどのように社会的に説明・納得されか"How?"を問う動機論を対置した。動機の語彙とは、こうした状況の社会的伝達=動機の付与を行うパターン化されたことばのセットである。
(略)
ミルズの動機の語彙論は、人間内在的な客観的原因論を問う行為論的な見地に対し、人間外在的な語彙による主観的な動機の構成を問う相互行為論的な見地を提起するもの、というのが、一般的な解釈といえよう。
61-62頁

このような枠組みを通してみれば、「本当の志望動機」を問うことの意味はそれほど意味がないのかもしれない。特に、入学してすぐの1年生に対して「先生は怒らないから『本当の志望動機』を原稿用紙に書いてみてください」との指示を出したとしても、そこから出される回答は「先生」にとって了解可能であるものにすぎない。筆者は「食堂でカレーを食べてみて、この大学なら4年間食べるのにも困らないと思いました」という回答が見当違いであるという評価をしていようだけれども、その回答で用いられている表現は学生の持つ作文の力量ゆえのことである。たとえば、「高校ではいじめられていたり苦手な科目の勉強がつまらなかったりしたけれども、あの日のオープンキャンパスで感じた楽しい雰囲気が大学にあるのならば、好きな分野の勉強もできるうえに友だちも新しくできるだろうし、なんとかやっていけそうだと思った」(ただし、それを丁寧に言語化して表現することが難しかった、思いも付かなかったので記憶の中にある食堂のカレーに言及してみた、カレーのとき楽しかったなあ)などと、もう少し詳しく回答の文脈を検討してみれば了解可能な主張に近くなっていく。ただし、それは繰り返しになるけれども、そうしたコミュニケーションが適切だからと認識されているからにすぎないことを前提とした回答であって、ほんとうの「動機」などを特定することは困難だし、それを追求して何が嬉しいのか実のところよくわからない。AO入試の際に提出する志願書類に書いた「動機」も、入学後に書いた「動機」も、その文脈において了解可能な限りほんとうの「動機」である。
同じことは留年や中途退学について、ほんとうの「動機」を解明しようとすう行為にも指摘できる。もちろん、特に中退退学は学生のキャリアにとって不都合を生じさせることが多く、また、貸与奨学金を借りている場合の返済負担もその後の見込み所得に比べれば相対的に大きい。同時に、私立大学関係者にとってはお馴染みの経営上の重要な課題である。そのため、ほんとうの「動機」を分析したうえでその問題の解決を図るということが行われるのだけれども、はたしてほんとうの「動機」はほんとうの「動機」なのかという無限の繰り返しの問いが続くことになる。講義がつまらない、友人関係がよくない、やりたいことではなかったなどの「動機」は確かに了解可能であるものの、了解可能であるからこそそれらが挙げられているのだ。留年や中途退学を防ぐ対策はある部分では必要であるけれども―中途退学しても復学が容易である社会を構想することも必要だ―、「動機」の追及に多くの資源を割くのはもったいないことである。
ところで、筆者は「教育困難大学」という言葉を使って、現代のボーダーフリー大学における学生気質をテーマとした記事を連載している。今回の記事もその一連の連載の一つに位置付けられている。しかし、今回の記事もそうなのだけれども、大学全般の問題であるにもかかわらず、それをボーダーフリー大学固有の問題であるように見せかけていることがある。たとえば、来年に他の大学を受験する仮面浪人、大学の講義の水準を低く見積もって欠席を繰り返す学生への言及である。このこともまた「動機の語彙」ではあるものの、そのような概念を持ち出さなくても学生支援の現場では、そうした動機は常に揺れ動くことは知られているだろうし、かつ、この問題はボーダーフリー大学のみに表れるわけではない。たとえば、早稲田・慶應東工大・一橋の学生が仮面浪人をして東大を目指すのと同じことであるうえに、その「動機」は支援者の了解可能性が高いからゆえに選択されることもあるだろう。そして、難関大学であっても筆者のいう「表面的な志望動機」はよく聞かれることである。学生の語る「動機」を表面的なものであるとみなすか、ほんとうのものであるとみなすかは、いままさにこのブログを書いている私も埋め込まれているコミュニケーションの在り様に規定されている―数字前に「表面的」と評価してしまっている私…。
最後に、「学力」についてはもう少し慎重に考えるべきである。筆者は原稿用紙の使い方が適切ではない、という事例を挙げている。しかし、この記事からはそれは学力不足の問題なのか、その場で選択されるコミュニケーションの方法を取り違えているのかがわからない。字下げの無視、話し言葉の使用などは、難関大学の学生でも珍しいことではない。もちろん、両者の課題が相俟ってそうした表現が行われるのだけれども、後者の改善についての事例の積み重ねは初年次教育やリメディアル教育の分野において続けられてきた―「めっちゃ」「やばい」は書き言葉というコミュニケーションでは使わないよ、そうした言葉はそれ以外にもたくさんあるので今ここでいくつでも挙げてみよう、成人はどういう書き言葉を利用しているだろうね、と。もし、そのような日本語リテラシーに関する指導をしていないのであるとするならば、ご検討頂ければ幸いである。
以前、「意欲」のある学生に対してしか教育などできないとネット上で主張なさる学者がいらっしゃた。それと比較すれば、それでもなお、学習意欲があまりない学生に対しても教育しなければならないという記事の結論部分には同意できるところである。