ジェンダーと「自由」―理論、リベラリズム、クィア

ジェンダーと「自由」―理論、リベラリズム、クィア

やや長いが引用する。

 レディ・ガガの「ボーン・ディス・ウェイ」は、ポップ・カルチャーにおける「クィア的な態度のこのような主流化傾向が行き着いたひとつの頂点とも言える。大仰な劇場性と奇抜な官能性とが人目をひくPVに反して、この曲の歌詞は、既存の社会秩序への批判でも攻撃でもなく、むしろ応援歌と形容する以外にないような、「健全」でポジティブでしかしパーソナルなメッセージを伝える―「後悔のかげに隠れないで/自分を愛せばそれで大丈夫/あたしはちゃんと正しい方向にむかってる/こういう風に生まれついたんだもの」。ガガのメッセージがクィア・アクティビズムの戦闘的な社会批判やポスト構造主義的なクィア理論のアイデンティティ批判からいかに離れているのかは、人気ドラマ『glee/グリー』(二〇〇九年―、FOX)のガガをフィーチャーしたエピソードを見れば理解しやすい。第一シーズン二〇話(二〇一〇年)、「劇場性」と題されたこのエピソードの終盤で、高校のグリー部に所属するゲイのカートはアメフト部の生徒二人に囲まれ、ガガの曲のパフォーマンス用の奇抜な舞台衣装をなじられて、こう言い返す―「殴りたいならば殴ればいい。でも僕は絶対に変わらないよ。僕はみんなと違っていることを誇りに思っている。それが僕の一番良いところなのだから」。そこに同じく奇抜な衣装をまとったグリー部の仲間が応援にかけつけてアメフト部の二人を撃退し、グリー部の一同は自分たちが「奇人(フリークス)」であるとしても「みんな一緒に奇人だよね」と確認する。このシーンで強調されるのは、ガガの「ボーン・ディス・ウェイ」で見られるのときわめて類似した「クィア的な態度」―奇抜な差異の公然たる主張―である。そして、「ボーン・ディス・ウェイ」の時と同様、この奇抜な「劇場性」もまた、制度に対する批判に向かうより、「私」の―さらには「私を含むみんな」の―エンパワーメントへと焦点化していくのだ。
 たしかに、「私は変わらないし、このままでいい」という主張はマイノリティのエンパワーメントとして力をもちうるし、そのエンパワーメントの必要な文脈も存在する。しかし同時に、この主張がクィア・アクティビズムやクィア理論の姿勢を部分的に受けつぎつつ、「私たち」と「あなたたち」とを峻別する既存の規範に対する批判的側面を大きく後退させ、「他の人たちと異なる私(たち)」のゆるぎない境界線を確認し主張する、いわば脱政治化されたアイデンティティ・ポリティクスの性質を強めていることにも、注意をはらう必要があるだろう。脱政治化された「私」のエンパワーメントへとむかうこの傾向は、ラディカルな性の政治に何をもたらし、そこから何を奪っているのだろうか。


第14章 清水晶子「『ちゃんと正しい方向にむかってる』―クィア・ポリティクスの現在」
318-320頁

私はメディアと政治の関係について不勉強なので、どうしてFOXがgleeを容認できるのか、あるいは、そんな問いに意味はないのかまったくわからなかった―サンケイグループのメディアが近隣諸国のドラマを容認するのと同じ程度に。私としては、gleeは家族の価値を強調することがあるので―たとえば、ゲイの子どもが保守的な親に受容されるに至るという、よくみかける物語―、FOX的な文脈に沿うものなのかなと何となく判断していた。しかし、この考察を読んで家族規範の強調も含めて「脱政治化」が鍵なのだ、と思い直す。
たしかにgleeは排除された(?)「私たち」としてまとまるのだけれども、そのことが周囲の学校文化、慣行、まなざし、などを変える機会はそれほど多くない。スー先生やフィギンズ校長を個人的にやり込めることはあっても、アイデンティティ・ポリティクスは学校全体を射程に入れることはないのである。問題は往々にして個人(そして、家族)のもとに投げ返されてしまう。個人の抱えた「生きづらさ」がわずかにでも昇華されるのは素敵であって強く感情移入するのだけれども、同時に個人単位でしか問題が据えられないことにもどかしい思いもするのである。