卒業式の歴史学 (講談社選書メチエ)

卒業式の歴史学 (講談社選書メチエ)

帯や序章卒業において式で涙を流す理由はなぜなのか、という問いが強調されている。しかし、本書の多くはその問いに答えるべく、そもそも卒業式という儀式が成立していく過程を綿密に検証している。

現代との差異は、式の名称や落第者の存在だけではない。この式で涙を流すのは「困ったこと」「やめさせるべきこと」であり、この子どもにとっては「何んだかわからない」事態である。そこに感謝と惜別の情、感動や涙との規範的結びつきは見られない。子どもが泣いたのは落第という「個人的」な事情によるもので、「感情の共同体」と呼べるような集団は存在していない。
20頁

これは1891(明治24)年2月ごろに小学校へ入学した人物による思い出を説明したものである。卒業式で先輩の涙を見かけたものの、その意味は現代の落涙とは異なっている。ただ単に(つまり、こうした形容を私が行うことそのものも現代的な特徴なのであろう)、及第しなかったことに対して泣いていたのである。

結局のところ、感情が重視されればされるほど、形式と行為への固執は強まる。儀式においての感情と行為は、たとえ個々人はその両者の間にギャップを感じていたとしても、断じて別物ではない。(略)つまり儀式という形式が行動の仕方を命じるがゆえに、人は行動と感情のギャップを感じることができるのである。
この、形式と行為と感情のアマルガムは、学校儀式がすっかり定着をみる中で、インフレーションの傾向をもつであろう。つまり、儀式は形式が整っているだけでは不十分であり、その一部始終は俳優全員による「心からの」発話と行為(直立不動の静止も行為である)によって満たされなくてはならないのだ。また、形式や行為を精緻化し、それに対する評価基準を厳格化することによってしか、儀式に感情をいきわたらせることはできない。その結果、アマルガムは次第に膨張し、感情と形式と行為の欲求水準と達成水準が引き上げられるのである。
165頁

卒業式の成立―特に、終章で明らかにされる卒業式の歌唱による涙の性格―については勉強になったものの、他方、この「心からの」発話と行為に着目するという場合に、従来の感情社会学に対してどのような上乗せをすることができたのか、ないものねだりをしたくなってしまう。いや、「社会的に構築されたもの」などではない、表層演技や深層演技(ホックシールド)なんて概念で捉えることのできない、「ほんものの心からの」発話と行為があるはずだという素朴な問いに対して*1、いかに反論できるだろうか。

*1:「卒業式におけるほんものの私たちの涙を、研究者はそんなふうに分析するなんて!」という抗議の声が聞こえてきそうなのだ。