出張先で読む。

帯には「教育は、政治から自由たりうるか」と記されているが、「教育学は、政治から自由たりうるか」としても良かったのだろう。とても面白く一気に読んでしまった。確かに教育二法は「逆コース」下の「反動的」な政策としてのみ学んだ記憶がある。私が60年代から80年代にかけて書かれた文献に学んできたこと、時代的な制約のなかで学んできたことをあらためて実感する。人事院法務省の反対、中教審の審議過程における慎重姿勢など知らないことばかりであった。

従来の研究は、政治的・イデオロギー的観点から「教育二法」を「反動立法」として批判することに終始し、緒方や犬丸のような当時の文部省関係者の見解を等閑に付してきたのではないだろうか。同法を制定せざるを得なかった事情や、同法の制定によって教育基本法の精神を擁護しようとした立法者の意図などが十分に検討されてきたとは言えないだろう。それゆえ、「教育二法」成立の意味を一面的にしか捉えられず、同法に対する評価についても、いささか観念的なものが多いという難点が認められるのである。3-4頁

矢内原忠雄や齋藤喜博らの反対は伝統的な解釈枠組みに照らしてみても、わかりやすいものである。信濃教育会の独自性も納得できる。一方、この研究によって初めて明らかになった複数の政府アクターのわかりにくさは、政治過程研究、政策過程研究においては少なからず生じることである。そもそも政府側には検討するべき資料が多く残されている。そこからは複数の政府アクターがまったく同じ見解を持っているはずがないという常識的な結論が導かれてしまう。「対立調整と合意形成」(43頁)がいかにして可能なのか、旭丘中学校事件が有利に働いた(248頁)という場合にそのような外在的な出来事を主観的に処理してよいのか、議論してみたいところである。もちろん、この論点はそのまますぐに私へ跳ね返ってくる。もつれた糸をほどく作業は大切なのだけれども、その作業に意義が認められるかどうか、政治的・イデオロギー的観点しか持たない従来の研究とかみ合う議論ができるかどうか、常に悩んでしまうのである。ところで、あとがきで軽く言及されている輿石東については、日教組ではなく甲州選挙の文脈で理解した方が良いと思うのだけれども、そうした研究はあるのだろうか。

高大接続関係のパラダイム転換と再構築 (高等教育ライブラリ)

高大接続関係のパラダイム転換と再構築 (高等教育ライブラリ)

木村論文:AO入試は選抜性の高い大学でこそ導入が期待されていたという事実は忘れられているのかもしれない。中堅大学においてはAO入試導入当初だけ、意欲的な学生が増加したり志願者が増加したりしたのであって、その効果はあまり継続しないという知見は、現代のさまざまな「大学改革」においてもあてはまりそうな印象を持ってしまう。「改革」の効果を持続させるには、さらなる資源が必要なのかもしれない。結論として挙げられている、高校生活を自律的に過ごしてきたかどうかが大学生活やその後の人生で充実を得られる要因だという指摘(114頁)は重要である。必ずしも高校生活を自律的に過ごすことができなかった経験を持つ学生に対して、どのようなアプローチが望ましいだろうか。


残り2冊、明日以降へ続く。ここ数回の出張、東横インが続いていた。内観療法はもう「おなかいっぱい」なので、今回はスーパーホテルを利用した。私はこうしたビジネスホテルの夜、読書が捗るのである。