表題は中央教育審議会大学分科会会長の言葉である。
2月13日の中央教育審議会大学分科会大学教育部会第9回に関する新聞報道を見て、私なりに論点を整理しておかなければならないと感じている。何としてでも学習成果をテストしたいという強い意向の理由は委員名簿を見て判明した。これを覆すのはかなりの困難だろう。今回の「実質化」案もまたいつものパターンの繰り返しである。日本の高等教育は劣化している、どこそこの国の高等教育は成功している、だから日本はどこそこの国を参考にした改革を行わなければならない、と。「出羽の守」研究がもてはやされる所以である。ほとんどの場合、どこそこの国は米国を指している。今回紹介されているのはCLA(The Collegiate Learning Assessment)、MAPP(Measure of Academic Proficiency and Progress)、NSSE(National Survey of Student Engagement)である。
とりあえずの思いつきの論点は2つである。1つは「出羽の守」研究がもてはやされる意味を問うことである。大学生を対象としたテストについては、50年前に設置されたリクルートセンターのテスト部門によるもの、それに貢献した東京大学心理学研究室によるものから、信頼性と妥当性の両方の点でなお課題があるようにみえる近年の社会人基礎力に関する研究者や専門の業者によるテストに至るまで、さまざまなものが提起されてきた。いつものパターンのようにこうした日本における実践の歴史は無視される。コンピテンシー論を称揚していた研究者はどこへ行ったのか。これまで実施されてきたテストについての検証はほとんど行われることなく、ただひたすらに「出羽の守」が重視される。「出羽の守」による知識が支配的な地位を占めることになるのはどうしてだろうか。
もう1つは日本の高等教育が置かれている文脈を等閑視したうえでの構想が実現した暁に対する危惧である。「出羽の守」によってもたらされる学習成果のテストに加えて、シラバス、プログラム・シラバス、ナンバリング、GPA制度、キャップ制度などの「ツール」がほんとうに「意味あるもの」になるのだろうか。かなり飛び道具的な比較になってしまうが、高等教育よりも遥かに喫緊の課題を抱えていた90年代の民間企業もまた同様の米国由来のさまざまな「ツール」を採用したはずであるが、それは成功したとはいえないだろう―先日、経営学の研究者が高等教育について語っていたので、同じように高等教育研究者が経営について語ってみた。もし、この構想が画餅で済まないようであれば、ナンバリングにそぐわない知識を決定的に壊滅させるような状況をもたらすのではないか。また、米国では学生の出自の多様性を自明のものとしてさまざまな制度が構築されている。一方、日本では本来はあるはずの学生の出自の多様性は隠蔽されている。勉強の習慣が必ずしも身に付かない環境で育ってきた学生に対して、その文化的な背景を問うことなく「相当の退学覚悟を」求めることになる。そうした隠蔽のもとでの「ツール」の導入は私を戦慄させるのである。
「若手」の高等教育研究者は委員名簿を見ることで政策案について批判的に検討することを躊躇ってしまうのだろう・・・、残念である*1。残りの「2割」の学生に対する想像力を持とう―We are the 20%*2

*1:やはり米国での教育経験を持っている層やお育ちのよろしいボンボンにとって、このエントリは極めて気に食わないようだ。

*2:出羽の守」に不利なことを言い過ぎたので追記。もちろん、私の評価はテスト結果の利用を個人単位にするか集団単位にするかで異なる。集団単位ならばマシである。分科会会長と「出羽の守」との間に見解の相違があるのかもしれない。