数日前に、ある大学のシラバスが話題になっていた。それは、アルファベットの読み方・書き方、辞書の使い方、be動詞など、英語の導入的な内容に関するものであった。その大学について、わざわざ入学難易度、卒業後進路、授業料、私立大学等経常費補助の金額…を調べたうえで、揶揄するような意見を見てしまった。私は、この大学、この授業のことをほとんど知らない。しかし、2つだけいえることがある。
第1に、履修主義(年数主義)、修得主義(課程主義)に関する理解である。小学校、中学校は、主に前者の履修主義に基づいている。これは、学力が不十分であっても進級させる仕組みである。メリットは落第がなく誰もが進級できること、習熟の早さ・遅さは不問にされることであって、デメリットは落ちこぼれ/落ちこぼしを見逃してしまうことである。一方、後者の修得主義は、できるようになるまで進級させない仕組みである(たとえば、公文式)。メリットは教員の責任が明確になること、デメリットは習熟の早さ・遅さに意味が持たされること、生徒集団の形成に悪影響を及ぼすことである。他にもそれぞれに、メリット、デメリットがあるかもしれない。
仮に修得主義を採用した場合、英語を苦手とする生徒は、おそらくは中学校を卒業することができないまま社会に放り出されてしまうだろう。この事態を決して良しとはしなかったことが、これまでの価値観であったはずである。たとえ落ちこぼれ/落ちこぼしを見逃してしまうことがあったとしても、全員を卒業させることに意義を見出していたのである。今回の「騒動」は修得主義への転換論につなげることが可能であるのだが、果たしてそれは皆が望むことだろうか。

論集 日本の学力問題<上巻>学力論の変遷

論集 日本の学力問題<上巻>学力論の変遷

第2に、習熟の早さ・遅さという点に関して、私たちは学力「問題」を学ばなければならないということである。これまでに学力論争は幾度もくり返されてきた。もし、学力論争に関心がないとしても、この本の田中論文が引用する中内敏夫の主張には頷けるのではないだろうか。

 学校教育においては、学んだことを「くり返し(反復)」たり、「学び直し」「わかり直し」たりすることが意図的・組織的に保障されており(保障されなくてはならないものであり)、そのこと(広義の練習)を通じて、「わかった」(理解、分別知)から「本当にそうだ、なるほどそうだったのか」(応用、了解知、納得)という人格形成に至る学力の形成・定着がはかられるのである。



これは履修主義のデメリットを補うものである。現状、大学は中学校・高校に比較してみれば、この保障を実質的に行うリソースに若干の余裕がある。もちろん、大学もまた固有の困難を抱えているので、多くの反論はあるだろう。あくまでも、中学校・高校に比較してという限定付きの見解である。大学における「学び直し」「わかり直し」を行う機会に対する反発について、私は納得できないのである。




なお、本学の課題にひきつけてみれば、「『本当にそうだ、なるほどそうだったのか』(応用、了解知、納得)」はゼミにおいて可能になっているのではないか、という漠然とした印象を持っている―講義で「理解」した内容は、ゼミの議論において定着がはかられるという仮説である。