先週、1年生向けにGPA関係の説明会が行われました。対象となる学生であるにもかかわらず、欠席してしまった場合は、今後の大学からの連絡を待っていて下さい。
ところで、今年から始められたGPAの卒業要件化*1、その推進論者の想定とは異なる状況になっているのかもしれません。推進論者の想定では、GPAを卒業要件とすることで、学生はより勉強するようになってGPAを上げる、そうではない場合、叱咤激励して根性を入れ直す、さもなくば、およそ精神面のトラブルが理由であるはずなのだから臨床心理士等によるカウンセリングを受けさせる(これは、一橋生が勉強を苦手としているはずがないという前提に立っていることによる)とされていました*2。しかし、幾人かの教育学者が危惧していたとおり、また、昨年度の「現代若者論」の講義の課題レポートで学生の皆さんじしんが指摘していたとおり、やはりこの仕組みはあまりにも単純すぎていました。経営学でもこんな単純なモデルを実践にあてはめるようなことはしないとも思うわけですが、教育の世界ではこうしたことが起こってしまいます*3。現時点では、学生がより勉強するようなったとは到底思えませんし、GPAの低い原因が精神面のトラブルのみであるわけでもありません。もちろん、推進論者が行うであろう反論としては、まだこの仕組みの周知が徹底していない、まだ学生の意識が低い、まだカウンセリングの効果が出ていない、というものなのでしょうが、これらは近年の規制緩和論者の反論と同じ種類のものでしかなく、問題への対応を先送りするだけにすぎません。先週の説明会で、私は Voice と Exit のお話しをして、立場上はそのどちらも取ることができないと申し上げましたが、学生の皆さんの判断次第では、 Voice (=声を上げる)も可能であろうかとも思います。このままでは、Exit (=退学)を強いられることになってしまいます。
ともあれ、私が説明会で強調したのは、学生の皆さんはおそらく叱咤激励されてもあまり意義を感じないでしょうから、これから提供される資源を有効に利用するのはどうか、というものです。説明会では、努力モデルの限界と他力本願の重要性を説明しました。私も含めてよく勘違いをしてしまうのですが、必ずしもじぶんじしんの努力だけで学校の成績が良くなったり、企業の利益が上がったりするわけではありません。時には他者とか他社とかの応援を率直に受け入れることも必要です。説明会に出席したにもかかわらず、始終にやにやしていた学生、また、その後学内で私を見かけて、同じくにやにやしていた学生は、GPAが低いことが恥ずかしいからということではなく、努力モデルを捨て去ることに恥ずかしさを感じていたからなのではないか、とも思います。私に向かってにやにやすることしかできない学生の心中を、教員集団は察するべきなのです*4
ということで、今後同様の説明会においても、私は根性を入れ直せ、などとは決して言いませんし、むしろ、その誤りについて言及する所存です。そのうえで、利用可能な資源についてアドバイスをする予定です。ぜひ、出席してみて下さい。



最近実際にあった検索語:GPA 上げる方法 一橋 問題点

*1:今年の1年生は、1.8以上を取得しなければなりません。

*2:学生・生徒をしばきまわす、しばきたおす、しばきこく仕組みと心理カウンセリングのセット、教育社会学界隈にとってはお馴染みの構図(?)です。

*3:子どものお小遣い帳を企業経営の管理会計に用いるような程度のことです。

*4:と言いつつ、私にも反省点は大いにあります。学生が神妙な顔つきで反省の姿勢を「表現」することを暗に期待してしまっていたことを否定できません。この期待は見当外れのものです。私の何の意味のない期待を適切に裏切るという点で、にやにやする戦略は極めて正しいものです。もし、説明会の目的が反省の姿勢の「表現」を求めることのように思われてしまったとすると、それは後から考えてみれば、まったく私の本意ではありませんでした。