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戦後日本の教育と教育学 (講座 教育実践と教育学の再生)

戦後日本の教育と教育学 (講座 教育実践と教育学の再生)

いわゆる「戦後教育学」批判に対する応答として、期待を込めて読んでみた。しかし、わからないことだらけで困ってしまったのである。
2000年代版の批判に対して応答を試みているのが巻頭の佐藤論文である。しかし、冒頭から「驚くべきことに、こうした戦後教育学批判に共通するのは戦争体験の思想化という問題の吟味がなされていないことである」(11頁)、「私は、加藤(二宮注:加藤周一)に注目したい。戦中の知識人の、とりわけ教育学者のこのような戦争協力をくり返さないためになにが必要となってくるのか、学ぶことができると思えた」(13頁)といった、私にとってはその問題意識を理解することが難しいことがらが主張されている。どうしてそれが「驚くべきこと」なのか、どこに加藤周一を持ち出す必然性があるのか、そして、どのようにしてそれらのことが近年の「戦後教育学」批判に結び付くのか、何度読んでもわからないのである。
そうした壮大な論文構成の問題はさておくとしても、結論部でポストモダン論を批判したいのか、批判論者によるポストモダン論理解を批判したいのかが明確ではないために、あるいは、両者の切り分け方が曖昧であるために、「戦後教育学」批判に対して一石を投じたとは言えないようにみえてしまうのである。

広田(二宮注:広田照幸)は、またこうも言う。ポストモダン論の台頭によって、ナイーブな普遍主義(人権論や発達論に基礎を置く戦後教育学は大きな懐疑にさらされるようになった。実践的教育学は規範創出力を減殺され、教育学はそろって「臆病」になった。この臆病な教育学の空隙をぬい、新自由主義思想(消費者資本主義的な学校利用観など)がやすやすと浸透し、その結果、経済と政治への教育の従属が生じたと現状を説明している。
教育が経済や政治に従属する事態に陥ったという認識は正しい。しかし、広田の考察で不足していることは、人権や発達を説く戦後教育学を教育の権力性を見損なうナイーブな普遍主義として批判するポストモダン論における新自由主義の理解についてである。
広田自身は、1980年代以降、新自由主義の社会への浸透によって、国家は役割を変化させ、問題解決者・調停者としての国家が立ち現れてきたと述べていた。国家はもはや「問題の当事者」ではなく「問題の解決者・調停者」であるというのだ。国家を問題の解決者と考えるならば、教育政策への貢献をこそ教育学の役割をと論じることに矛盾はない。
しかし、問題の解決者として立ち現れた国家が、教育を経済と政治に従属させてしまったとするならば、これは大きな問題である。新自由主義の役割は、支配階級の再建・回復にあり、新手のイデオロギーや諸政策の展開にとどまるだけでなく、階級権力の再建に向けたいわゆるヘゲモニー・プロジェクトであった。国家は問題の当事者としてあり続けたのであり、それは批判を回避してはならなかった。そして、なにより決定的な問題は3・11の原発事故災害を引き起こした当事者のひとりこそ日本国家であったという明白な事実の顕現である。「無責任の体系という国家」は少しも変ってなどいなかった。「問題解決者という国家」観はきびしく責任を問われなければならない。
佐藤広美「戦後教育学と戦争体験の思想化」29-30頁

ハーヴェイを参照して新自由主義のねらいを説明している。しかし、批判論者はそうした教育学における伝統的な国家観の読みの鈍さを指摘していたのではないだろうか。批判論者の主張をもう少し正確に言えば、国家は「問題の当事者」であることに変わりはないものの、その当事者性の立ち位置を変え始めた―たとえば、新公共管理の導入、政策形成を担う本省と執行を担うエージェンシーの分離―ということだろう。批判論者はそのことも問題視してきたはずである。

さらに、ポストモダン論がこの問題解決としての国家観の顕現とどのような関係を持っていたのかが問われる必要がある。広田の説明によれば、ポストモダン論は、結果として、新自由主義を浸透させ、教育の政治と経済への従属という事態をまねいた役まわりを演じたことになる。ポストモダン論にはその批判様式に大きな問題があったのではないだろうか。
広田は、教育学が結果的に規範力を失った問題点を指摘し、臆病になったことを残念に思っているように見える。しかし、問題の根本はそうではなく、規範力=普遍的価値を堅持しつつ実証的研究を創造的に生み出すという研究者倫理の確認だったのではなかったか。普遍的価値を投げ出せば、教育の危機的現実を読み解き批判する拠り所を失い、現状への追認になりかねない。それでは、貧困と格差を呼び起こし、教育統制を強める新自由主義的改革を断行する国家の教育行政犯罪を見損ない、免罪してしまう。これでは責任ある教育学とはいえない。大事なことは、教育の普遍的な価値への揺るぎない探求であり、価値認識が不十分であればさらに深め直す構え=教育研究者の思想性にあったろう。広田の戦後教育学批判はどこかに問題があったと思われる。
佐藤同上、30-31頁

結局のところ、「どこか」に問題があったのだと投げ出してしまう。たとえば、「ポストモダン論にはその批判様式に大きな問題があった」のは誰にとって(何にとって)、どのような問題だったのだろう。「研究者倫理の確認」という点もまた、「戦後教育学」批判への応答としてどのような意味を持つのか、まったくわからない。勇ましい言葉が用いられているだけに、もっと理解を深めたいのである。


こうした教育学の「思想性」について現代の教師、教師志望の学生は共有する/できるものなのだろうか。