〈高卒当然社会〉の戦後史

〈高卒当然社会〉の戦後史

すでに多くの論者から書評が出されていて、今後のさらなる生徒減少期における高校教育機会の保障についての政策科学的な議論の蓄積が始められている―高校進学が「あたりまえ」になったからこそ、それでも高校に進学できない、高校を中退する層が社会的に排除されるという喫緊の課題について、本書は多くの示唆を与えている。そこで、ここではそれらとは違う観点で気になったことを記してみる。


ケーススタディをもとにして、第1次ベビーブーマーが押し寄せる時期の対策方法を類型化する際に、その相違の要因として、アントレプレナーシップ起業家精神)の存在の有無、人口変動の見通し(に対する意味付けの違い)、公立高校と私立高校の間の協調関係の有無の3点が挙げられている。特に私が関心を持ったのはアントレプレナーシップについてである。

第一が、アントレプレナーシップ起業家精神)の存在である。具体的には、徳島県と宮崎県の違いに見られるように、私立高校を設置したり、誘致したりする「熱意」には明らかに違いが見られた。この「熱意」としてのアントレプレナーシップの違いはそのままベビーブーマー期に都道府県間の差異を拡大させていくこととなった。
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他の2点にも通じることなのだが、その要因を生み出したものが何であるのだろうか。その説明が必ずしも十分ではないため、いわゆる県民性の違いという単なる文化論に回収されてしまいそうである。特に、アントレプレナーシップという経営学用語を持ち出すのであれば、(紙幅の都合で削らざるを得なかったという事情があったのだろうけれども)その必要性を丁寧に述べてもよかったのではないか。少しネットで検索しただけでも、経済学の本義、経営学が展開するなかで揺れ動く意味、心理学や社会学によって借用された意味などがあって、漠とした概念であることがわかる。
アントレプレナーシップがあったケースとしては、静岡県、宮崎県、山形県が取り上げられている。何れも大学誘致や学校法人の設置に積極的であった地域である。一方、それが希薄であったケースが徳島県であったという。こうしたケースからすれば、確かにその背景としてアントレプレナーシップを挙げたいところである。私の研究分野においても、たとえば、東海大学はとりわけ高度経済成長期において、首都圏や関西圏に進学のためにわざわざ転居することのできない勤労青少年―なかでも、理工系の学問を修めたい若者―のためにキャンパスを北海道、九州に展開したことが有名であって(東海大学は附属高校も全国展開していく)、まさしくこれをアントレプレナーシップと表現してみたい。その他、大学誘致に関する郷土史や学校法人の沿革史を読んでいると、もうそれはその概念でしか把握できないような「アツい」(流行り言葉でごめんなさい)思いに接することもある。しかし、だからこそ経営学の水準まで到達する必要はないかもしれないものの、もう少し操作的な定義ができればよいのだろう。史資料からアントレプレナーシップの存在を読み取るのは容易だけれども、他方、それがないと判断するのは躊躇してしまうのだ。
もう1つ、アントレプレナーシップを強調するのならば、より経営学的に大学誘致や学校法人の設置が「成功」する要因が何であるのかを知りたかった。本書にはもちろん研究目的にしたがって「成功」のケースが描かれているわけだが、実際には数えられないほどの「失敗」のケースがあるはずだ。大学の「失敗」のケースでは自治体の都市開発計画の杜撰さ、学校法人の資金繰りの問題が指摘されることがある一方、高校の場合はどうなのだろうか。