この数週間における各所の高等教育改革構想に関連して、今年の日本高等教育学会課題研究におけるフロアとの質疑応答を思い出している。



フロア:結局のところ、社会は大学教育に何を求めているのですか。私が思うのは………という人材の養成なのですが、先生はどのように思われますか?
二宮:よくわかりません。
フロア:新聞や雑誌でもよく報道されているではありませんか。どうして先生はわからないと仰るのですか?
二宮:そもそも、その社会とはどのような意味でしょうか。政府ですか、財界ですか、業界団体ですか、個別企業ですか、国民ですか。それが定まらないと何ともお答えできないです。
フロア:社会は社会ですよ、そんな区別要らないでしょう。みんな同じですよ。社会は………を求めているのですよ。
二宮:そうでしょうか。



もしかしたら、自身の大学教育に対する要望を社会というもののそれと単純に同一視したうえで、そのことを私に承認してほしいという願いだったのかもしれない。自身と社会の一体化を理想視しているのだろうか。そうであれば、私の一見すると誠実ではない回答に対して不満を持ったことだろう。しかし、数名の教育学者、社会学者が指摘し続けてきたように、社会それ自体が大学に対して何かを求めるわけではない。また、新聞や雑誌では「今、大学には………が求められている」という表現が好まれていて、それを誰が求めているのかよくわからないことがある。それを報じる新聞や雑誌の要望であるに過ぎないようにも読めるのである。
ネット上でしばしば話題になるように、財務省文部科学省とでは大学教育に対する要望は当然異なっている。財界と業界団体と個別企業でも異なるし、財界(経済団体)内部でも異なることもある。一企業内部でさえも、経営者、人事担当者、現場それぞれに要望が異なるということもある。あるいは、要望は似たようなものであってもその優先順位は異なるかもしれない。たとえば、「実践的な英語力」を否定することは少ないだろう。しかし、必ずしもその優先順位までもが同じであるとはいえないはずだ。さらに、情報の制約、それに由来するバイアス、手段目的関係の特定の困難などの複数の理由によって、人がある限定をかけたうえで要望を語ることはそもそも困難な営為である。企業の現場の方に要望を伺っていると、いつの間にか天下国家の要望を論じているということも少なくないのだ。
そのうえ、ここまで社会というものを細分化してみようとしたとしても、なお一つの陥穽から免れることができていない。将来の大学生、子どものいない家庭、大学教育には縁がないような厳しい生活を送る人びとなど、特定の層を綿密に排除している。それらは社会に含まれないのか。数年前の大学教育学会における、ある論者による「タックスペイヤーに貢献する大学教育を」発言に対しての私の怒りはこの問題意識に端を発している。
では、社会が求める大学教育を特定することは不可能なのか。いや、そういうことではない。それを探るためには学術的な手続きが必要なのである。私ならば次の書籍を復習してみるだろう。マクロ、メゾ、ミクロの三層の過程への着目を促す。
皆さんはどうするか。


自由民主主義体制分析―多元主義・コーポラティズム・デュアリズム

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