先日、横浜国立大学のキャリア教育研究会に出席した。とても勉強になったとともに、ますます悩みを深めてしまった。
キャリア教育のある種の偏り―就職支援への特化は、むしろ些細な偏りであって―、つまり、キャリア教育の必要性が主張される背景への(意図的な?)無関心については、繰り返し指摘されてきたことである。この点については、改めて問題を確認することができた。
一方で、性急な否定を避けるべく、内容を問題とはせず、形式についてのみ考えるとすると、その教育目標のあり方が悩みの種になる。将来の職業について関心を持つ、就職の際に周囲の雰囲気に流されない、就職してから責任を自覚して仕事に取り組もうと思う、職業生活を通じて自分を向上させたい・・・、これらは何れも方向目標―相対評価である。ただ、方向を示しているに過ぎない。しかし、近年、高等教育においても重視されるのが到達目標―到達度評価である。キャリア教育の方向目標を到達目標へ転換することができるだろうか。一つのあり方は、キャリアに関する知識を深める、教育・訓練の制度や組織について理解する、といったものであり、(適切な到達度評価が行われているかは不確かだが)当然のことながら既に実施されている。もう一つのあり方は、就職のための道具的な技術の修得である。例えば、時間を守ること、は到達目標に適しているように見える。こうした目標を、ある価値観から否定することは至極簡単ではあるが、だからといって、「きめ細かい」支援で「成功」している大学の事例を見る限り、捨象することはできない。しかしながら、例えば、ストレスに耐える、周囲に気を遣う、を到達目標にはできない。その場の状況に応じて変化する「あるべき」コミュニケーションを、到達目標にするのは困難である。こうした目標が必要なのであるとしても、せいぜい方向目標に据えるのが精一杯である。以上の整理が正しければ、高等教育において重視されている評価法、および、一部のキャリア教育の内容は、辻褄の合わないものになってしまうのである。繰り返しだが、形式についてのみ考えた場合の悩みである。