学生調査の話題

終章「蒙昧主義的教育行政を越えて」において、学生調査に関する指摘がある。そもそも教育行政という言葉を大学政策に対して用いる違和感はあるものの―たとえば、大学教育学会誌での『反大学改革論』の書評で私は教育行政学者と紹介されているのだけれども、本来の教育行政学者はおかしいと指摘するだろう―、筆者の分野ではそれが一般的なのだととりあえず理解しておく。

教育改革政策の根拠とされてきた実証データの中には、たとえば東京大学大学院教育学研究科・政策研究センター(2008)のように、調査方法論という点で重大な問題を含むものも少なくない。これについては、佐藤(2015:5-7,近刊)参照。
370頁注6

ここで紹介されている東京大学大学院教育学研究科・政策研究センターは、おそらく東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策研究センターのことだと思われる。そして、参照されている「調査方法論という点で重大な問題を含むものも少ないない」研究―平成17年度~21年度文部科学省科学研究費補助金(学術創成研究費)によって実施された、平成19年1月~7月の「全国大学生調査」―の問題点は、以下の書籍で簡潔に紹介されている。

社会調査の考え方 下

社会調査の考え方 下

この5頁から7頁では東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策研究センター(2008)の報告書において折れ線グラフの使い方が間違っていると指摘されている。確かに、横軸に「人社教芸」「農工理」「保健・家政」「その他」を置き、縦軸に割合を示す表で折れ線グラフを使うのはおかしい。筆者が修正するように、横軸を「1年生」「2年生」「3年生」「4年生」として、縦軸に割合を示し、「人社教芸」「農工理」「保健・家政」「その他」の折れ線を描いた方が適切である(もちろん、その場合であっても、なお別の問題が生じている)。ただし、この報告書は全部で6つの章から構成されていて、そのうちの1つの章だけがこの折れ線グラフを使っている一方で、「先にあげた報告書には、図9.1の場合と同じような問題を抱えるグラフが少なくとも10数点含まれている」(同書7頁)という書き方はあたかも報告書全体が間違ったグラフを使っているように読めるので、必ずしも適切ではない(私がその報告書を擁護する義務はまったくなく、他の章の担当者がこの折れ線グラフの修正を求めてもよかったはずだ)。また、おそらく筆者の中心的名関心ではないので省略されてしまっているのだが、教育改革政策の「根拠」とされたデータや、当該東大報告書には数多くの問題があると言うならば、そうした問題をもう少しだけ具体的に取り上げてもいいのではないだろうか。大学改革を否定することに性急になるあまり、読み手が誤解するような恣意のある書き方をするのは好ましくない。近刊で説明が追加されることを期待している。とはいえ、大規模学生調査が確率標本ではなく、「リテラシー・ダイジェスト」誌による選挙予測のような「数頼みの調査」になってしまっているという同書303頁の注7で指摘については、高等教育論研究者は検討しなければならないだろう。大規模学生調査にいくつもの課題はあるとはいえ、その存在が認知され始めたといった段階に到達したということでもある。その一方で、調査における様々な困難や、そもそも「エビデンス」をもとにした教育政策に対する00年代以降の否定的研究の蓄積の検討といった問題もあって、悩みは尽きない。

参考

  • 東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策研究センター「大学生調査」

ump.p.u-tokyo.ac.jp

  • ベネッセ総合教育研究所「大学生の学習・生活実態調査報告書」

berd.benesse.jp

www.dentsu-ikueikai.or.jp

  • ジェイ・サープ研究会「“全国大学共通型”学生調査」

jsaap.jp

www.univcoop.or.jp

バスで群馬から東京へ・後編

f:id:sakuranomori:20181229200305j:plain:w200
に「師匠、小江戸川越に着くようです。風情ある町並みですね」
ぐ「群馬も負けてないよ。今度ブログで前橋や桐生を紹介してね」

f:id:sakuranomori:20181229191725j:plain:w200
に「本川越で降りたところです。ここまで来ると旅も半分を過ぎたような感じですね」

f:id:sakuranomori:20181229191925j:plain:w200
16:05 本川越駅→16:31 西武バス所沢営業所

f:id:sakuranomori:20181229192054j:plain:w200
ぐ「お昼過ぎからなんとなく気づいてんだけど」
に「え、何でしょうか」
ぐ「この旅の目的、埼玉県を中心にして隣県にも展開しているうどんレストランチェーン『山田うどん』を見ることになっていないかな。ここまでで6、7件は見かけた気がする」
に「いやいや、何をおっしゃるのですか。埼玉県を移動しているのだからあたりまえですよ」

f:id:sakuranomori:20181229192608j:plain:w200
に「いやー、もう余裕ですね。夜7時過ぎには23区内に辿り着けそうです。いま時刻は16:43、道が混んできたので少し遅れました。次に乗るバスの出発時刻は、あ、このバスは今日最終便なんですけど、えーっと16:41発ですね」
ぐ「え?」
に「ええ」
ぐ「えええ?」
に「ああ、もう出発してしまっているではないですか!乗り遅れました」
ぐ「EBSさんとかが喧嘩し始めるパターンだ。テレビで見たことあるかも」

f:id:sakuranomori:20181229192929j:plain:w200
ぐ「(ショボーン)」
に「予定では、西武バス所沢営業所、茨原前、清瀬駅北口、新座駅南口・・・、と乗り継いで夜7:15前後にゴールすることになっていました」
ぐ「(ショボーン)」
に「仕方がないので、別のルートを考えますね」

f:id:sakuranomori:20181229193232j:plain:w200
17:01 西武バス所沢営業所→ 17:08 花園
17:04 花園→17:12 所沢ニュータウン
17:42 所沢ニュータウン→17:48 中富南
(ショックのあまり写真を撮っていませんでした。花園では遅延していたバスに乗り換えました)

f:id:sakuranomori:20181229193848j:plain:w200
18:01 中富南→18:21 東所沢駅

f:id:sakuranomori:20181229194019j:plain:w200
18:24 東所沢駅→19:03 志木駅南口
に「この辺りは大きな工場が多いためか、そこから駅まで送迎バスで帰宅するお勤めの方が多いようですね」
ぐ「なるほど。なんか事情をよく知ってそうだけど、どうして?」
に「学生のとき、就職活動でエントリーした会社の工場がこの辺りにいつくかあります。さっきも3社見つけました。どれも面接にまで進めず落ちたんですけどね」
ぐ「(聞くべきではなかった話題だったか)」

f:id:sakuranomori:20181229194120j:plain:w200
ぐ「はあ、疲れたなあ。誰だよ、こんな変なことに付き合わせてるの」
に「まあまあ、そうおっしゃらずに」

f:id:sakuranomori:20181229194224j:plain:w200
に「立教大学の新座キャンパスです。私は数年間ほど仕事で通っていたことがあります」
ぐ「・・・」
に「(聞いてもらえていない)」

f:id:sakuranomori:20181229194359j:plain:w200
19:12 志木駅南口→19:31 堀の内橋

f:id:sakuranomori:20181229194528j:plain:w200
19:46 堀の内橋→20:06 大泉学園駅北口
に「また、山田うどんのお店ですね。ここまでで10件ほど見つけました。山田うどんを訪ねる旅、あと一息です」
ぐ「え、ほんとうに山田うどんを訪ねる旅だったの?」

f:id:sakuranomori:20181229194844j:plain:w200
に「ゴールしました!東京都練馬区大泉学園、20時06分です!」
ぐ「やったあ。やっとゴールだ!」
に「感慨深いですね。しかも、かかったお金もリーズナブルなはずです。新幹線で高崎から上野まで行くと、自由席でも4,200円ほどかかります。一方で、今日使ったバス代は、390円、620円、200円、200円、350円、566円、299円、567円、そして、本川越からは1日乗車券があったので途中の一部を除いて終点まで620円、その途中の一部が175円。さらに途中でバスの割引が100円あったので・・・・・・・・・、合計でなんと3,887円!新幹線よりも安いです」
ぐ「で、かかった時間は?」
に「朝8時に出て夜8時に着きましたので、ほぼ12時間です」
ぐ「ありえない」

f:id:sakuranomori:20181229195905j:plain:w200
ぐ「ねえ、メーテル、次は機械の身体をタダでもらえる星へ絶対に行きたいんだ。だから999のパスを」
に「師匠、それがやりたっかんじゃん。鉄郎が隠れちゃってるし」

最終目的地の候補として、この他に板橋区成増、板橋区西高島平、北区赤羽、足立区舎人がありました。当初、本川越または川越から大宮に向かって、そこから赤羽か舎人に向かうルートを考えていたのですが、短い路線を何度も乗り継がねばならないようで、どうしても22時近くになってしまうようでした。また、大宮ルートはYahoo!知恵袋で紹介されていましたので避けることにしました。そこで、方針を変えてみたところ19時過ぎに大泉学園に着くルートを見つけました。しかし、途中の失敗によって結局は20時を過ぎてしまい、それであれば成増、西高島平でも良かったという結末になりました。

バスで群馬から東京へ・前編

2018年12月、振替休日としていた平日のことです。その前日、突如思いつきました。そうだ、大学から東京までバスで行ってみよう!ルールは(1)スタートは群馬大学荒牧で、ゴールは東京23区内ならどこでもいい、(2)路線バスだけを使う、(3)コミュニティバスを使ってもよいけど、オンデマンドバスはだめ、(4)長距離バスはだめ、(5)事前にインターネットで調べてもよい、です。そして、旅のお供はぐんまちゃん。

f:id:sakuranomori:20181228224356j:plain:w200
07:58 群馬大学荒牧→08:25 本町

f:id:sakuranomori:20181228225344j:plain:w200
に「ぐんまちゃん先輩おはようございます。今日は1日よろしくお願いします」
ぐ「お願いしますね!」
に「ぐんまちゃん先輩、なんだか呼び方が難しいので、今後は師匠と呼ばせてください」
ぐ「・・・」

f:id:sakuranomori:20181228232235j:plain:w200
に「師匠、本町に着きました。ここは、老舗の高級文具店前橋大気堂の前ですね」
ぐ「そうそう、昔からある」
に「ところで、師匠、本町は『ほんまち』って、『まえばし』と同じように平板アクセントで発音しますよね。これって何でなんですか?」
ぐ「そういうのは自分で調べようよ。いつも学生に言っているようにさあ」
に「(突然の師匠風・・・)」

f:id:sakuranomori:20181228232757j:plain:w200
08:39 本町→09:35 伊勢崎病院北(市民病院北)

f:id:sakuranomori:20181228233003j:plain:w200
ぐ「あ、共愛学園だ!」
に「大学もよい評判をお聞きしています。いつかお話しを聞いてみたいものです」

f:id:sakuranomori:20181228233252j:plain:w200
10:00 市民病院北→10:54 上武大橋南

f:id:sakuranomori:20181228233651j:plain:w200
ぐ「いい眺めだね。って寝てるのかよっ!」
に「(スヤアッ)」

f:id:sakuranomori:20181228235851j:plain:w200
に「(グウ)」

f:id:sakuranomori:20181228234013g:plain:w400
に「(あ、寝てた。いけない)いやいや、師匠、ずっと起きてました!それより、今日の明け方まで作っていたこのパワポをご覧ください。群馬県から埼玉県へバスで行こうとすると、利根川を渡るのに4つの候補があります。この中でもっとも東の刀水橋を使うのは、大田熊谷ルートとしてYahoo!知恵袋で紹介されていました。なんとなく知恵袋に載っているルートを使うのはチートっぽいのでやめます。次に、一つ西にある新上武大橋はバスの便がなさそうです。そして、もっとも西の坂東大橋については、伊勢崎本庄ルートとしてバスがあるのですが、本庄から先として寄居の方まで遠回りをしなければならないようなので却下しましょう。最後に残ったのが、てってれー、上部大橋を渡るルートです。なんと、利根川を渡った先に群馬県の飛び地があるので、コミュニティバスが通っているのです。今まさに、乗っているバスがそのルートです!」
ぐ「あのさ、話しが長いってひとから指摘されないかな?」
に「ごめんなさい。あと少しだけ。師匠、バス降りたら結構走りますよ。次のバスは、少し離れたところから乗らなければいけないし、時間もありませんので。今日最大の難所です」
ぐ「えー、まじか。あと、さっき寝てたよね」

f:id:sakuranomori:20181228235806j:plain:w200
下手計 11:29→深谷駅北口 11:50
に「ま、間に合いました!」
ぐ「いや、そんなことより、今スピーカーから聞こえているのなんだろう。『午前11時の市況をお伝えします。ほうれん草高値80円、安値40円、仲値60円・・・』、これはいったい」
に「何でしょうね。さっき青果市場を見かけましたけど、そこから流れているのですかね。深谷は葱の産地でしたっけ。バス停の近くには養蚕をしていたような建物もありました」
ぐ「ところで、昔の作品なんだけど『翔んで埼玉』って知ってる?」
に「師匠、師匠だからといって何でも言ってよいというわけではないですよ」

f:id:sakuranomori:20181229000845j:plain:w200
ぐ「ランチだ。やったあ」
に「から揚げ定食にしたかったんですけど、どうもあまりにも量が多そうなのでやめておきましょう。そして、この居酒屋兼昼食時ランチ屋さんの2階はちょっと気になるテナントなので、今度こっそりその気になるポイントをお教えしますね」
ぐ「あのね、君の問題はそういう、もったいぶったところだぞ」

f:id:sakuranomori:20181229001257j:plain:w200
ぐ「東京駅?後姿の銅像は郷土の英雄渋沢栄一だね」

f:id:sakuranomori:20181229001359j:plain:w200
ぐ「写真ではお見せできないので残念だけど、ぐるぐる回っているよ」

f:id:sakuranomori:20181229001449j:plain:w200
ぐ「さっき乗ってきたバスだ」

f:id:sakuranomori:20181229001539j:plain:w200
12:40 深谷駅北口→ 13:18 熊谷寺

f:id:sakuranomori:20181229001812j:plain:w200
13:29 熊谷寺前→14:06 東松山駅東口
ぐ「さっきから口数が少ないけど、どうしたの?」
に「食後なのでまた眠くなってしまいました。師匠、申し訳ございません。お詫びといっては何ですが、熊谷の誇る百貨店を紹介します。バス停の先に見える八木橋百貨店です!」
ぐ「知ってるよ、当然。群馬のスズラン百貨店もよろしくね」

f:id:sakuranomori:20181229002221j:plain:w200
14:17 東松山駅東口→14:33 古名

f:id:sakuranomori:20181229002505j:plain:w200
ぐ「吉見百穴が見える!」
に「えっ!ほんとですね。この旅で観光地に寄るなんて思ってもみませんでした」

f:id:sakuranomori:20181229002644j:plain:w200
に「武蔵丘短期大学ですね、ここもよい評判をお聞きします」
ぐ「そうそう」

f:id:sakuranomori:20181229002758j:plain:w200
に「バスを降りました。ただひたすら寒いです。30分待ちです。この企画、夏に実施したら暑さでやばいところでした」
ぐ「冬のからっかぜを堪能しよう!」

f:id:sakuranomori:20181229002935j:plain:w200
15:08 古名→ 15:41 本川越駅

後編へ続く。なお、万が一同じことをなさる場合には、あらかじめ事前の下調べを入念に行うことをお勧めします。コミュニティバスは時刻やルートが変わることもありますし、とにかく夏場は暑くて有名な地域ですので大変だと思います。

蛍光灯とエアコン

以前の勤め先の一つと現在の勤め先とで共通していて、最初に勤めた大学ではあまり見かけなかった習慣がある。それは、教室に入った学生が誰一人として照明や冷暖房を操作しようとはしないことである。たとえば、履修する講義がない時間帯に空き教室で待機したり、次の講義を受けるために早めに教室に入ったりする場合に、教室を快適な空間にしようとすることがない。夏の南向きの教室で窓も開けないまま100人の学生が汗だくになっている、冬の北向きの教室で、外套を身に着けたままで寒さに震えながら、BYOD機器(スマホやノートPC)で手元だけの明度を確保―まるで100の蛍が飛んでいるかのよう―しているのを見る度に、部屋全体を明るく、暖かくできるスイッチが黒板の横にあるので誰かが押せばいいのにな、と思うのだ。この習慣が大学ごとに違うのか、時代によって違うのかについては、私の経験だけでは判断できない。大学教員の皆さま、お勤め先ではいかがだろうか(もちろん、大学によっては「集中管理」のために教室では操作できないかもしれない)。なお、最初の勤務校では学生は高い授業料を払っているのだからエアコン使用は権利とでも言わんばかりで、サークルで利用したり単に暇な時間を過ごしたりする空き教室のスイッチをすぐに操作するので夏は涼しく冬は暖かかった。それはそれで高騰する電気代という別の問題が生じるのが悩みどころではある。
かつてある場所で、このことは「主体性」の観点からよくFYEの論点の一つとされていた。どんなことでも何かを誰かに準備、提供してもらうのが当然であるというのではなく、自らできるようになれるといいよね、というテーマである。そのあまりにもささやかな行動の一つが教室に入ったらすぐに照明、冷暖房を操作することなのであった。「主体性」とは何か大掛かりな行動のことだけを射程に入れているわけでなく、そうした日常の行動も関係しているのだ。教員の中には教室を快適な空間にするのは教員の仕事であるとか主張なさる方もいるだろうけれども、そのことと学生が同じことをするのは両立しないわけではない。教員であれ学生であれ、先に教室に入った方がスイッチを押せばよいだけである。ともあれ、だから「主体性」がないのだという評価することが必要だというわけではなく、まずは、どうして照明や冷暖房をどうにかしようとはしないのかについて知りたいのである。とりあえず、思い付くのは以下の理由である。

  1. 高校で電気機器に触るのは教員だけだというルール、慣行があったので、それをそのまま踏襲している。
  2. 高校で電気機器に触るのはその当番の生徒または何かしらの事情に基づく特定の生徒だけだというルール、慣習があったので、それをそのまま踏襲している。
  3. 高校で電気機器に触ることは「同調圧力」のために難しいことだったので、それをそのまま踏襲している。
  4. 高校で電気機器がまったくなかった(ありえないか)。
  5. 家庭で電気機器に触るのは親や年長のきょうだいだけだというルール、慣行があったので、それをそのまま踏襲している(これも、ありえないか)。
  6. 電気機器に触ることなどは下々の仕事なので、高貴な立場の学生である私がするはずはない(ないない)。
  7. わざわざ電気機器に触らなくても、誰か他の学生がやってくれんじゃね。
  8. 仮に電気機器を触った場合、他の学生(特に、まったく知らないわけではなく顔は見たことはあるけれども、だからといって仲が良いというわけでもない学生)から苦情―寒すぎる、暗すぎる・・・―が寄せられそうで怖い。そんな立場になりたくない。
  9. コート着てるしスマホあるので、別に。何か問題でも。

この他にも理由はいくつかありそうなので、皆さまぜひ教えてください。なお、バ先(=アルバイト先)、大学を卒業して就職した先ではどうなのだろうか。他の従業員よりも先に出勤したら、照明を点けないのかな。仮に給料の貰えるところでは照明を点ける一方、高校や大学ではそうしないというならば、この違いは教育学における「学校文化」という問いになるのかもしれない。なんだか90分1コマの講義中の検討課題になってきた。

教育社会学会公開研究会参加―アクティブラーニングの諸相

http://www.gakkai.ne.jp/jses/2018/10/19111635.php

日本教社会学会第70回大会課題研究Ⅲ「アクティブラーニングの教育社会学」公開研究会(11月6日)に参加してきた。主として高等教育におけるアクティブラーニングがテーマとなっていて、初中等教育におけるそれは検討の対象外となっている。
以前から気になっていたことは、登壇者からも紹介があったようにアクティブラーニング形式の授業は昭和後期や平成に新設された私大でよく導入されていて、それに比べれば国公立大や戦前に創立された大規模私大ではあまり導入されていないということに関連するテーマである。アクティブラーニングは(この言葉は意味が曖昧なので好みではないのだけれども、わかりやすいと評価する方もいるのであえて使うと)「上から」導入が求められているのだけれども、その「上」が導入を特に期待するような伝統ある選抜性の高い大規模私大、とりわけ社会科学系で大教室での「講義」が多いような大学ではあまり導入されていない。補助金によって政策的な誘導が図られているにもかかわらずである。他方で、新興の私大では、その学部編成が看護・保健、教育に偏っているということを差し引いたとしても、アクティブラーニングがよく導入されている。その場合、当然「上から」の誘導に乗ったという場合もあるけれども、同時に、「下から」の対策(もちろん、「下から」という言葉の意味も曖昧だ)であったということも指摘できる。登壇者の複数から紹介があったことだけれども、選抜性の高くない私大では授業を運営するためにどうしてもアクティブラーニング(あるいは、それに類するものであって、すなわち、いわゆる座学のみの講義+教場期末試験による成績評価ではない種類の授業)が必要であるというのだ。「現場」の必要性に関する認識によって、すなわち、「下から」導入される―座学+試験を苦手とする学生への対応―ということがある。インターネット上では選抜性の高い大学に勤務する学者による「上から」指示されるという理由や、その表面的な見た目が麗しいだけで内容が空疎であると評価するという理由としたアクティブラーニングを否定する意見を見ることができるものの、その視野からは見ることのできない「下から」の切羽詰った導入という事例もあることを知っておきたい。ただし、このように書くとアクティブラーニングは選抜性の高い大学では不要であると評価される可能性もあるが、それは誤解である。ここからは不要かどうかの判断をすることはできない。
さて、教育社会学の理論の中には、アクティブラーニングとして想定されるような授業における到達度は、出身家庭の背景を受けやすいというものがある。これは幼稚園、小・中学校の事例でよく言われることであるのだけれども大学ではどうだろうか。学習の時間や空間の縛りが緩く、何が適切なアウトプットであるかについての評価基準が曖昧であったりすると、家庭の資源に恵まれない学習者にとっては戸惑いが大きく、十分な到達をすることができないというものである。他方、家庭の資源に恵まれた学習者にとって、それは自ら創意工夫を繰り出す余地の大きい、やり甲斐のあるおもしろい学習であって、その到達度も高くなることが見込まれる。この理論が仮に正しいとすると奇妙なことになる。どうして、資源に恵まれない学習者が相対的には多い可能性のある大学においてこそアクティブラーニングが導入されているのだろうか。「下から」の導入というのは、いったいどのような意味なのだろうか。このように考えていたところ、登壇者の一人がフレーミング(枠付け、F)に着目したほうがよいのかもしれないという結論を述べられて、納得したのである。同じアクティブラーニングという言葉でまとめられる授業であっても、確かにフレーミング(枠付け、F)が内的(i)にも外的(e)にも強ければ学習者が戸惑う要因が少なくなるし、弱ければ多くなる。そこで、仮説段階でしかないわけだけれども、少なくとも「下から」の導入であったアクティブラーニングについてはフレーミング(枠付け、F)が強いということになるだろうか。そうだとすると、アクティブラーニングという名前が付けられている授業のイメージは少し変わるかもしれない。他者とのコミュニケーションが苦手、不得意である学習者にとってアクティブラーニングは不利益をもたらすという通説があるけれども、それはおそらくフレーミング(枠付け、F)が弱い場合である。フレーミング(枠付け、F)が強い場合はどうなるだろうか。なお、筆者の「現場」の感覚としては、苦手なこと、不得意なことでも工夫をしつつも行わなければならない学習はあるし(それは座学、筆記試験でも同じことである)、卒業後の人生を見据えてそうしたことがらの練習をすることも大事である。
ところで、2012年のいわゆる質的転換答申の力点はアクティブラーニングなどではなく学習時間であるという、登壇者複数の主張には全面的に賛成している。つまり、アクティブラーニングを導入しようということではなく、学習時間が少なすぎるのでどうにかしよう、という趣旨である。しかし、アクティブラーニングと違って学習時間については知識の蓄積が必要となる医学系、理工系、または、資格取得系以外の分野では「下から」導入する動機が生じないためにあまり改善されない。
また、筆者としてはアクティブラーニングが空疎であるという否定論について考えてみたかった。実のところ、アクティブラーニングが空疎というわけではなく、パフォーマンス・モデルの第三のモードである一般的スキル・モードに結びつくことで空疎になるように思えるのである。パフォーマンス・モデルであるにもかかわらず伝達される知識に実体がなく、むしろ、コンペタンス・モデルであるように見えてしまう。卑近な例で言えば「グループワークを通じて社会人基礎力を身に付ける」という課題である。

あの一般的スキル・モードが、「労働」・「生活」経験についての〈教育〉的基礎として、どのように構築され定着するかという問題に立ち戻ってみたい。この一般的スキル・モードは、単に獲得の〈教育〉手順が経済的な(経済に基盤をおいている)ばかりでなく、「労働」・「生活」の新しい考え、つまり「短期変動主義」とでも呼べるような考えに基づいている。これは、スキル・課題・労働分野の発展・消滅・再編(の変動過程)を持続的に受け止めて行こうというものである。つまり(変動短期社会の)生活経験は、未来とそこでの個人の位置についての安定した予測に基盤を置くことはできない。こうした環境の下では、活力ある新たな能力が発達されなければならない。それが「訓練可能性」であり、それは〈教育〉が次々に改革されてもそこから成果を得ることができる能力、「労働」・「生活」の新たな要請にうまく対処する能力を意味することになる。こうした〈教育〉の改革は、特定のパフォーマンスよりも柔軟で移行可能な潜在能力を実現することが期待される一般的スキル・モードの獲得を基盤とするだろう。だから、一般的スキル・モードは、その深層構造を「訓練可能性」という概念の中に持っている。
バジル・バーンスティン『〈教育〉の社会学理論:象徴統制、〈教育〉の言説、アイデンティティ』訳書、124-125頁

このモデルではない場合のアクティブラーニングについて、どれくらい空疎否定論が妥当といえるようになるだろうか。