高等教育機関「国際化」と「英語プログラム」

かつての勤務校で、「グローバル30」に応募する準備をしたり、日本人学生を全員留学させるという構想、あるいあ、授業を英語「で」行うためのFD等に携わっていたりしたときに悩み続けていた、おそらく欧州の文脈とは異なるであろう大学教育の「国際化」(研究、研究者の「国際化」ではなく、あくまでも教育に焦点を絞った問題)とはいったい何なのかという問いに対して、理論的にも実践的にも解を提供して頂くことができた。
研究の問いは次のように示されている。

1.東アジアにおける非英語圏の国である日本と韓国において、高等教育の「国際化」や「地域化」といった現象がどのような様相を持ち、そのなかで英語を教授媒介言語とした学位プログラム(以降、「英語プログラム」)はどのような位置づけにあるのか?
2.日本と韓国における「英語プログラム」は、その設立目的やカリキュラム、学生の様相などにおいて、どのような特徴を持っているのか?
3.日本および韓国で数多くの留学生を受け入れている旗艦大学の英語プログラムの特徴や課題、そしてその差異や共通点は何か?また、そのような英語プログラムでは、どのような学生が、どのような目的で留学し、どのような学びと経験を得ているのか?
4.英語プログラムの政策的・戦略的課題と展望、また日本・韓国における高等教育の国際化や留学生移動にもたらした変化の、世界の比較教育分野における概念的位置づけはどのようなものか?
5-6頁

私が特に勉強になったのは理論的な整理についてである。第3章「『英語プログラム』分析のための批判的視座:東アジアにおける高等教育国際化を捉えなおす」では、単に「国際化」が良いものであるのだから進められるべきであるというわけではなく、それには慎重になるべき理由もあるという慎重な姿勢で議論が進められている。比較教育学、教育社会学としてとても重要な論点である。たとえば、「英語プログラム」のベネフィットとして、文化の多様性、グローバル化対応能力、頭脳還流、他方面的な留学生交流、多様な学生の受け入れ、地域的・国際的連携の促進が挙げられている一方で、そのリスクとして、授業の質の低下、単一化、英国化・西洋化、英語帝国主義、学術的帝国主義、エリート主義とまとめられている(97頁)。これらのことがらは実践について考える場合にも、常に往還して議論の対象に加えておくべきことだろう。
実践的なことがらとしては、第4章「日韓『英語プログラム』の形態分析と類型化モデル」が参考になった。英語を導入するカリキュラム、コース、プログラム、講義・授業といっても、その形態はあまりにも多様である。筆者は「英語プログラム」を「入学・卒業要件としての日本語・韓国語能力や日本語・韓国語による授業の履修義務がなく、英語による授業科目のみの履修で、学士・修士・博士といった学位取得が可能な教育プログラム」(111頁)と定義したうえで、日韓両国の沢山の大学での「英語プログラム」の類型化を試みている。この類型化が成功しているかどうか、専門外の私にはわからない部分もあるのだけれども、各大学が実際にそれを導入する際の指針にはなるはずである。
そのうえで、ないものねだりになってしまうのだけれども、学力的に上位層が集まっている大学での、意欲や能力・資質の高い学生に焦点を絞ることも重要であるのと同時に、そうではない事例もまた同様に検討の対象にする必要があるのかもしれない。日本、韓国、中国の3カ国共に、自国の上位トラッキングに入れない/入らないがゆえに留学を選択することとか、その場合のノン・エリート層の動機や制約はエリート層とは異なっているかもしれない、さらには、そうしたときに「英語プログラム」ではないプログラムが必要になるであろうことなどは、私にとっては気になる論点である。また、「大学」「大学院」ではなく「高等教育」を研究対象とする場合には、「周縁的」とされているような機関についても知りたいと思うところである。

学内FD:ポートフォリオの活用・アクティブラーニング

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先日、医学部保健学科の「教育ワークショップ」において、ポートフォリオの活用とアクティブラーニングをテーマとしてお話しさせて頂きました。保健学科の皆さまのお時間を頂戴いたしましてありがとうございます。
当日の内容は次のとおりです。


1.自己紹介
2.ポートフォリオの活用
2.1.文部科学省中央教育審議会による現状認識
2.2.学習観の変容(1)―知識・スキルの活用、問題解決
2.3.学習観の変容(2)―学習者中心の考え方へ
2.4.ポートフォリオの種類
2.5.ラーニング・ポートフォリオの定義
2.6.ラーニング・ポートフォリオに含むべき要素
2.7.理論的背景
2.8.事例
2.9.群馬大学ポートフォリオ自由記述についてのご提案
2.10.(授業についての)省察のための問いかけの事例
3.アクティブラーニング
3.1.その定義
3.3.その必要性
3.3.講義と組み合わせたアクティブラーニングの例
3.4.よくある質問


余談として言及したことですが、いわゆる「大学改革」の諸プログラムの中にはとりわけ専門職養成とは折り合いのあまり良くないものがあります。プロフェッショナルとして仕事ができるようになるための知識・技術の伝達がまず先にあることは間違いなく、当然その価値を損なうようなことはするべきではない旨を強調いたしました。また、学生の思考を活性化するという意味でのアクティブラーニングは、そのように言われてみれば多くの先生がすでに採用なさっていることかと思われます(それは決して身体を動かすという意味ではありません、アクティブという言葉が誤解を生じさせがちです)。
ワークショップ後の雑談において、私は保健学科の教育文化、学生文化について大変勉強させて頂きました。皆さまにお礼申し上げます。


追記:そうは申し上げつつも、当日紹介したA4の色紙をクリッカー代わりに使う方法も参考にして頂けますと幸いです。また、その実演へご協力賜りましたことも感謝しております。

国立大学教員数(続編)

衆議院議員河野太郎公式サイトに掲載された国立大学教員の給与総額について、平成13年度が最大値で、平成25年度まで継続して減少、その後やや増加するという経緯を辿ることができる。では、具体的にはどのようなことが生じていたのだろうか。
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図1は教員数の推移を示している。教授、助/准教授ともに増加から横ばいになるという傾向があった。
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図2は平均給与月額を示している。平成13年度がピークであり、以降減少し続けている。特に、東日本大震災の復興財源を捻出のための特例措置として給与カットが行われていた時期の減額幅は大きい。
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図3はその支払われた給与総額を示している。教授、助/准教授ともに増加した一方で、一人当たりの支給額が減っているためであろうか、やはり総額も減少傾向にある。
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ところで、図4、図5は35歳未満の若手教員の割合の推移を分野毎に示している。私立大学はもともと若手教員が少ない一方、国立大学では採用抑制の影響を受けたためか、どの分野でもその割合が減少する傾向にある。
まとめてみると、教授、助/准教授の数は増加したものの、1人当たりの給与支給額が減ったために、その総額も減少したのと同時に、若手教員の割合が減って教員の「高齢化」が進んでいるということになる。若手の割合が増えたから給与総額が減ったということではない。

国立大学教員数―増えた分野はどこか

www.taro.org
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衆議院議員河野太郎公式サイトに掲載された国立大学教員数に関して、実感に合わないというお声を複数聞いた。そこで、私なりに整理しなおしてみた。
表1は3年ごとに実施される「学校教員統計調査」のうち、「大学等の部―教員個人調査―年齢区分別・専門分野別・本務教員数」の数字を並べてみたものである。社会科学、工学、保健、その他で増員の傾向が見られる。特に増えているのが保健である。ただし、このデータには任期付教員も含まれている。「学校教員統計調査」で調べられている離職教員数について、保健は毎回1,000人以上となっているのでかなり流動的な分野なのであろう。
お昼休みの時間を使ってまとめただけなので、今日はここまで。時間があれば、職階別、年齢別もまとめてみたい。定年延長が何かに影響を与えているという仮説も残されている。また、その他とはいったい何なのか(FDer?URA?)。

大経コース@東大研究会

本日は東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策コースの研究会「大学のマネジメントに関する勉強会」にお招き頂きました。各大学の職員さんや若手高等教育研究者が集う会で、私はとても勉強になりました。ありがとうございました。私がお話ししたのは、6月中旬に刊行された『反「大学改革」論:若手からの問題提起』では書ききれなかったことと、そこで触れた補助金政策に関連して、現在進行形で生じている「ブレインドレイン」(頭脳流出)についての論点です。前者については同席なさっていた経済学者の方より、仮に大学改革がかつての「産業政策」と同じように政府からの誘導という性格を持っているとするならば、その成否は危ういだろうという指摘を頂きました。確かに、かつてであれば「産業政策」は成功したモデルとして肯定的に言及されることが多かったものの、今では批判的に吟味されているはずです。高等教育に関する各種のプログラムについても、優秀な官僚によって誘導されるというのではなく、「市場」に任せるという方法もありうる構想なのかもしれません。
後者については、最近気になっていたことを自分なりに整理する機会となりました。「ブレインドレイン」に関して、社会学で議論されてきたグローバリゼーションの諸問題を思い出していました。たとえば、第1に、グローバリゼーションによって、大企業は税率が低くインフラの整った国家へ移動していくこと、国家は大企業を誘致するための競争を始めること、労働運動は無効化されること、その辿り着く先にあるのは徴税能力を失う一方で失業した国民に対して給付するサービスの増加であるということです。第2に、グローバリゼーションはかえってローカルな価値を呼び覚ますということです。国家や地方への愛着が増し、地域ナショナリズムの台頭を誘います。第3に、グローバリゼーションにとって、エリートはいつでも不都合な場所から逃げ出して国境を飛び越えて活躍できる一方、残された人びとはますます困窮化するといった階層の分化が進むということです。以上のことについて大企業を学者に置き換えた場合に、とりわけ右派からの反発は強そうな印象を持っていました。日本国内で補助金を受けて養成された学者が他国で活躍するとき、学者個人にとっては望ましいキャリアである一方、「納税者」*1がそれを許容できるでしょうか。優秀な学者から薫陶を受けるためには国外へ出なければならない時代が到来するとして、それを好ましくないと評価する方もいるかもしれません。特にローカルな価値に目覚めた「納税者」は「国益」を気にして学者の国際的な移動を否定する可能性もあるでしょう。
実はこれらの問題は、教育学では「村を捨てる学力」というテーマで考え続けられてきたことでもあります。昭和30年代の閉鎖的で生産性の低い農村において、子どもに教育を施すことによって村を豊かにしようとするのだけれども、結局は子どもは都会に出てしまって村はそのまま取り残されることについての問題関心です。まさしく、上記の第3の例と同じことです。期待を受けて育成された学者なり農村の子ども個人のキャリアと、国家なり村なりの存続・繁栄はいかにして両立可能なのか、そうした論点を提起しました。なお、インターネット上の掲示板では、やはり「ブレインドレイン」に対しては右派の立場からの否定的な見解がかなりあるとのことでした。
継続的にこうした問題について考えられる機会があれば幸甚です。

*1:「納税者」概念を持ち出すことの危険性については以前に言及したとおりです。ここでは、あえてこの言葉を使っています。