デザイン・思想・国家


盟友である一橋大学の太田美幸先生から『スウェーデン・デザインと福祉国家: 住まいと人づくりの文化史』新評論、2018をお送り頂きました。ありがとうございます。

現代社会に暮らす私たちにとっては、教育といえば学校において子どもを対象に行われるものというイメージが強いが、必ずしもそればかりが教育であるわけではない。
たとえば教育学者のジョン・デューイ(John Dewey,1859~1952)は、「われわれは決して直接に教育するのではない」として、「環境による間接的な教育」を重視した。人間は、環境から無意識のうちに強い影響受けているが、その影響力は極めて精妙で浸透力が強いため、環境を統御することによってそうした影響をコントロールすることが重要だというのである。彼のこうした考え方にもとづけば、人々の生活の基盤となる住まいもまた、「環境による間接的な教育」がおこなわれる場とみなすことができる。
他方、人間が社会において役割を果たすためは、疲れたときに住まいに戻って緊張を解き、安らぎを得ることが必要だが、これは人間の自己形成の過程でもある。人間の生を支える重要な機能を住まいが有しているとすれば、住環境を整えると言う行為は、「望ましい人間形成」のための一つの方法とみなすことができるだろう。
ところで、どのような人間形成を望ましいとするのかは、時代や社会によって異なっている。それゆえ、社会が大きく変動する転換期には、その理念や方法がさまざまに模索されてきた。工業化の進展によって日常物質文化が著しく変容した一九世紀後半から二〇世紀前半は、まさしくそのような時期だった。
新たな生活への対応が迫られたこの時期に、日用品をデザインすることへの関心も高まったわけだが、それは人々の暮らしを豊かにするためでもあり、それを通じて人間をつくりかえ、さらに社会をつくりかえようとするものでもあった。近代デザインは、「人々の生活や環境をどのように変革し、どのような社会を実現するのかという問題意識を持ったプロジェクト」として現れたのである。
このように考えると、近代デザインは、それ自体が人づくりの新たな形態でもあったといえる。以下、本書ではスウェーデン・デザインの歴史をこうした観点から記述し、そこにいかなる人間形成の思想が込められていたのか、それが福祉国家建設をめぐる議論にどのように組み込まれ、人々の暮らしをどのように変えていったのかを探っていきたいと思う。
10-12頁


太田先生のご専門であるスウェーデンの民衆教育論と密接に関連している近代化の諸問題と社会政策とを、デザインという切り口からアプローチした論考であると理解しました。民衆教育については大学院生の頃から先生のご発表で勉強させて頂いていたのですが、その当時から先生が家具やインテリアなどのデザインにご関心があることを伺っていて、今回の新刊によってそれらの問題意識が結び付いて得心しました。
ところで、第6章の住宅政策の説明部分で、持ち家運動、持ち家イデオロギーへの言及があります。私が家族社会学ジェンダーについて学んでいた学部生の頃、特に関心を持ったテーマの一つが国民(市民)の持ち家についての感情―それは、教育や政治に深く関係している―でしたので、とても興味深かったです。近代化の中で都市における劣悪な住宅環境(と労働)への対策として、日本とスウェーデンとでどのようなことが同じでどのようなことが違っていたのか(本書を読む限り、同じように見えるところもあります)考えてみたいと思います。

いただきもの―教育社会学入門書と教育学入門書

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大妻女子大学の牧野智和先生から、吉田武男(監修)、飯田浩之・岡本智周(編著)『教育社会学:MINERVAはじめて学ぶ教職』ミネルヴァ書房、2018をお送り頂きました。ありがとうございます。
牧野先生ご執筆の第10章「学校という空間と社会」において、教育社会学の観点から初等中等・高等教育のそれぞれにおいて、それら学校段階毎の特質をふまえつつもあたかも一貫して展開されているようにみえる「アクティブラーニングをどのように考えるか」という論点が提起されています。

アクティブラーニングにおいては、新しい教育方法の導入に見合ったさまざまな評価の選択肢が示されている。例えば形成的評価、パフォーマンス評価、ルーブリックの導入などである。これらが十全に機能した時にもたらされる教育効果はもちろんあるにしても、さらなる評価の多様化と、依然持続すると考えられる説明責任要求を合わせ考えると、金子が明らかにした諸点が持ち越される、あるいはより深刻になる可能性は小さくないだろう。アクティブラーニングは学校がコンサマトリー化した状況において、教師と生徒双方に「何かをやった」という充実感をもたらすかもしれないが、そのような充実感の一方で学校生活全体にわたる評価の細密化はおそらく加速する。生徒たちは教師の評価に対してさまざまな適応戦略をとるものだが(金子、1999)、微細な評価ポイントに気づいた生徒のみが教師にとって好ましい態度をもって、より有利な立場を得ようとする展開もまた加速する可能性が高いだろう。
(略)
アクティブラーニングの実施に際しては、ただ何か作業をやらせればよいわけではないという教育実践上の戒めがしばしばなされるが、それにとどまらず、誰がより有利な状況にあるのか、生徒の「権力」上の不平等はないか、という教育社会学的な態度も、公正な評価のために必要なのではないだろうか。
129頁

このアクティブラーニングに対する注意深い姿勢は、初学者向けのテキストとしては良いものだと思いました。ただ、研究の観点からはやや不満を持ってしまうかもしれません。ここで提起されている問題は、教育社会学がこれまで課題としてきた評価そのもののあり方と、それに関連する知識伝達の過程における学習者のバックグラウンドに由来する有利・不利というテーマであって、アクティブラーニングに内在した固有の論点というわけではないからです。むしろ、たとえば、B・バーンスティンが「再文脈化された知識」の伝達に関して指摘するような「コンペタンス・モデル」と「パフォーマンス・モデル」の違いからアプローチしたほうが、もう少し見通しが良くなるような印象を持ちました。「何かをやった」という充実感は否定的に説明されることが多いわけですが、その「何かをやった」をもたらす実践がそもそも問題視していた従前の知識伝達のあり方(そして、しかしながら実はそれこそが不利な層にとって良いこともあるという捩れ)にも言及しつつ、それらのモデルの特徴に迫ると私にとってはわかりやすかったです。



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そして、同日に、山梨学院大学の児島功和先生から、植上一希・寺崎里水(編)『わかる・役立つ教育学入門』大月書店、2018をお送り頂きました。ありがとうございます。
児島先生ご執筆の第4章「貧困世帯の子どもと学校」では、将来、幼稚園~高校の教師になるであろう大学生に対して、子ども貧困に気づくことができるかどうかという問いを投げかけています。

最後に、みなさんが教師になったときのために、気をつけてほしいことがあります。それは貧困の「見えづらさ」です。
(略)
Jさんは、自分の家庭が貧しいことをまわりに知られると「恥ずかしい」と感じていて、「普通を装おう」といいます。「普通を装おう」ことの背景には、自分たち(家族)は普通ではないという感覚があります。もし貧困世帯の子どもが学校で「普通を装おう」ことをしていたらどうでしょう。教師になったみなさんは、そのことに気づくことができるでしょうか。
また宿題をやってこない子、授業に真剣に取り組まない子、学校生活を送るうえで前提とされる生活習慣を身につけていない子がいたら、「だらしない子」「だめな子」とラベルを貼りたくなるかもしれません。しかし、これこそ、貧困世帯の子どもの特徴といえるものです。「だらしない子」「だめな子」というラベルを貼ることでその子どもと家庭が発信しているSOSのサインを見逃してしまうかもしれません。何か問題を感じたときに教師に求められるのは、「もしかしてこの子の家庭は様々な困難を抱えているのではないだろうか」と、子どもの言動の奥に複雑で多様な背景を想像できることではないでしょうか
47-48頁

私の大学院の指導教員がよく言っていたことの一つがまさにこのテーマでした。たとえば、1970年代くらいまでは、身なりや所持品から児童・生徒の貧困はわかりやすかったのだけれども、80年代くらいから「豊かさ」の恩恵が各層に対してそれなりに広がるにつれて、上記引用の「普通を装おう」や、消費社会の浸透・馴致といった理由で表面的には貧困がわかりにくくなって、教師による支援―それは学習だけのことではありません、児童・生徒の生活や保護者の就労や扶助に関わる広範なもの―が少し難しくなったというものです。この本も初学者に対してとてもよい入門書であるように思いました。

さて、この2冊を拝見して驚いたのは、高等教育・大学に関する章が設けられていることです。高等教育論・大学教育論の位置付けが変わってきたのかもしれません。これまで、教育学、教育社会学の書籍、特に入門書でそれらが触れられることはほとんどなかったのではないでしょうか。試しに、すぐ手の届く範囲にあった以下の入門書で高等教育・大学に関する章があるかどうかを確認してみました。さて、この中にそれらの章はいくつあるでしょうか?



柴野昌山『教育社会学を学ぶ人のために』世界思想社、1985 →第12章執筆者は竹内洋なのでそこだけやや異質
 序章 教育社会学の基本的性格、第1章 教育社会学の歴史的展開、第2章 教育社会学の研究方法、第3章 家族の役割体系と社会統制、第4章 社会変動と子供(ママ)観の変遷、第5章 子どもの社会化と準拠者、第6章 学校組織の社会的機能、第7章 学校文化と生徒文化、第8章 教室における相互作用、第9章 教師の職業的社会化、第10章 マス・メディアと青少年、第11章 ラベリングと逸脱、第12章 企業と学歴


中内敏夫『教育学第一歩』岩波書店、1988 →私たちの仲間内でいう「緑と黄色の本」
 第Ⅰ部 教育原論
  第一章 なにを教育とよぶのか、第二章 教育の計画化、第三章 教育過程、第四章 教育集団論
 第Ⅱ部 教育学説史
  第一章 教育論以前、第二章 十七世紀ヨーロッパの教授学とジェスイットおよびヤンセン派、第三章 近代社会における教育学の誕生と変転、第四章 日本の教育論


久冨善之・長谷川裕『教育社会学:教師教育テキストシリーズ5』学文社、2008 →いわゆる教職向けテキスト
 序章 教職と教育社会学、第1章 学校という制度と時間・空間、第2章 学校で「教える」とは、どのようなことか、第3章 教師と生徒との関係とは、どのようなものか、第4章 学校教師とはどのような存在か、第5章 若者は今をどのように生きているか、第6章 <移行>の教育社会学、第7章 子育て・教育をめぐる社会空間・エージェントの歴史的変容と今日・未来、第8章 学校の階級・階層性と格差社会、第9章 国民国家ナショナリズムと教育・学校、第10章 教育改革時代の学校と教師の社会学


矢野智司・今井康雄・秋田喜代美・佐藤学広田照幸『変貌する教育学』世織書房、2009 →入門書ではないか
 「教育学の変貌」に関する覚え書、限界への教育学に向けて、教師教育から教師の学習過程研究への転回、去る教師・遺す教師、変貌する国際環境と日本の高等教育、心理主義批判の核としてフロイトを読むために、生活改革のひび割れた構成物としての新教育、儀礼の再発見、『民主主義と資本主義』をふりかえる、教育の公共性と自律性の再構築へ


広田照幸『ヒューマニティーズ教育学』岩波書店、2009 →入門書にしては難しい
 一、教育論から教育学へ、二、実践的教育学と教育科学、三、教育の成功と失敗、四、この世界に対して教育がなしうること、五、教育学を考えるために


木村元・小玉重夫・船橋一男『教育学をつかむ』有斐閣、2009 →「教職教育学」と「アカデミックな教育学」を結びつけて「つかむ」とのこと
 序 教育学とは何か、第1章 教育と子ども、第2章 教育と社会、第3章 教育の目的、第4章 ペダゴジーのグランドデザイン、第5章 ペダゴジーの遂行(1)、第6章 ペダゴジーの遂行(2)、第7章 ペダゴジーの担い手、第8章 教育の制度、第9章 教育の接続、第10章 共生の教育


田中智志・高橋勝・森田伸子・松浦良充『教育学の基礎』一藝社、2011 →これも簡単ではない
 第1章 学校という空間、第2章 知識の教育、第3章 教育システム、第4章 戦略的教育政策・改革と比較教育というアプローチ


石戸教嗣『新版教育社会学を学ぶ人のために』世界思想社、2013→ベテランと若手のバランス!
 序章 教育社会学とは、第一章 教育社会学の展開と課題、第二章 欧米における教育社会学の展開、第三章 社会移動と格差社会―後期近代の社会イメージ、第四章 ガバナンスと教育計画―地域の再編と教育行政、第五章 教育現実の言説的構築、第六章 カリキュラムと学力問題、第七章 教師という職業―教職の困難さと可能性、第八章 ジェンダーセクシュアリティと教育、第九章 子ども・若者の世界とメディア、第一〇章 ネットワーク社会と教育、付章 教育社会学の半世紀



答えは1箇所です。矢野ほか2009の中の「変貌する国際環境と日本の高等教育」です。そして、章タイトルには入っていないのですが、木村ほか2009の中の第9章で高等教育についての言及があります。それも含めれば2箇所ということになります。そうした状況と比較すると、最近の入門書で高等教育・大学について説明が行われること自体がとても興味深いです。

「若者と社会」独自授業アンケート2018

私が担当した、2018年度前期全学共通科目教養育成科目総合科目群「若者と社会」(2単位)の履修者は約80名でした。この科目は学生による授業評価アンケートの対象外でしたので、講義終了後かつ成績評価決定後の時点で、独自にアンケートを行いました(回答は任意)。18名の学生から回答が寄せられました。ありがとうございます。なお、ほとんどの履修者が1年生でした。その所属学部・学科は理工学部教育学部、医学部医学科、医学部保健学科で、偶然にも偏りがあまりなかったです(時間割の都合上からか、社会情報学部の学生はいませんでした)。
事前に許可を頂いているように、ウェブ上ですべてを紹介したいと思います。



Q.講義全体の感想をお書きください。


  • 最初は難しいと感じていた話題も、回を重ねるごとに前の講義との繋がりを見つけたりすることで関連性を考えられるようになった。毎回レポートやミニッツペーパーを書くことで、正しいレポートの書き方も学べる講義だと思った。
  • この講義を履修しなかったら考えなかったであろうことを真剣に考えることが出来た。政治、カルトなど少し難しい内容もあったが、恋愛、自傷行為などイメージしやすいものもあったため、毎回の講義が楽しみだった。また、授業内容と考察をまとめるレポートを毎回書くことによって文章を書くことに慣れることが出来、人の話を要点を絞って聞く方法も分かった。
  • とにかく社会学、教育社会学政治学、経済学の分野に関心がない人にはつらい講義だと思った。しかし、少しでも興味があったり頑張りたいという意欲のある人は絶対受けた方がいい講義だと思った。予習のための論文を読みこみ、1週間その事についてあれやこれやと考えることはとても自分を成長させてくれると感じたし、考えたことを表現するために色々な用語を理解することも大切だった。細かいところだが、大学の講義への取り組み方というのも教えてもらえる大変貴重な講義で1年生のうちに受けることができてよかった。講義に熱を注げばそのぶん成長できる機会がある講義だと思った。
  • はじめは、「当たり前」のことに疑問を持ち、それがなぜ「当たり前」なのかを考察することには苦戦した。しかし、授業回数を重ねるにつれて内容についていけるようになり、徐々に考察することができるようになってきた。実際、政治的なニュースを以前よりも深く考えながら見ることができるようになったと思う。しかし、まだまだ知識不足により、愛国心などは興味深かったが、二者の対立する考え方を深く考察することができなかったように感じる。全体としては、講義内容は面白いものが多く、学ぶものが多かった。
  • ミニッツペーパーや予習レポートが少し負担ではあったが、講義の内容は興味深いものであったため受けることができて良かった
  • 期末テストがない分予習やミニッツペーパーが大変。講義の中身自体は社会学てきな内容が大半で専門用語をそのまま理解しなければならないから結構難しい。しかし、抽象的なことを考えるいい機会でもあった。
  • 元々社会学に興味があったということもあり、講義全体としてとても満足することができた。しかし、レポートの考察について、先生の説明がわかりづらく何を書けばよいのかわからなかったり、「すべて」のスタンプにリプライをする意味が本当にあったのかなど、レポート課題については納得できない部分も多々あったが、文章力や要約力は4月に比べてかなりついたと思う。
  • 考察するのが難しかった
  • 講義時間内にミニッツペーパーを書き上げることは非常に大変であったが、今を生きる私たち若者にとっての「あたりまえ」を深められる講義である。
  • 講義内容はシラバスに書いてあった通りで、もともと講義内容が自分が興味を持っている内容を多く扱っているという点でこの講義を選んだので、その点では私が望むような講義が受けられた。
  • 講義内容は自分にとっては難解であったが、客観的目線での社会を見つめることができて、現代社会における自分の立ち位置というのがわかった気がする。それ以上にこの講義では予習レポート、ミニッツペーパー等の活動を通して大学生にふさわしいレポートの体裁や内容の書き方を獲得できた。これらを踏まえると字自分にとっては非常に有意義な講義であった。
  • 最初は、要約、考察に手こずったが、回数を重ねることで慣れ講義が楽しくなった。また、この講義を受講することで他の講義で要約、考察を求められたときにやりやすくなった。
  • 最初は難しそうな講義だなと思っていたが、いざ受けてみると若者について改めて考えさせられる、面白い講義だった。予習レポート、ミニッツペーパーのどちらも大変ではあったが、文章力、書き方等が少しずつ身についてきたため、ためになった。
  • 自分が知らなかった世界のことを知れた。新しい視点を持てた。
  • 社会の仕組みや、今起こってる社会の現状を把握することができて、とても為になる授業だったと思います。
  • 他の選択科目と比べるとやや大変な講義ではあったが、とても充実していた。
  • 予習レポートを書くとき,読みにくいと感じる論文もあったので,それを要約して考察するのは大変だった。
  • 論文に対する考察を毎回行ってきたことによって、他の講義で考察を行う際に役立てることができた。論文の読み方、考察の仕方はこの講義で学んだと言っても過言ではない。二宮先生にはとても感謝している。また、普段の生活では真剣に考えないようなことも考える機会を与えてくれた。以前の自分とは違った意見を持つことができた。

論文や授業内容の要約、考察に多くの時間を使ったことでしょう。1年生にとって、それらの練習はとても重要です。考察というのはとても難しく、私だっていまだに苦労しています。また、皆さんはあまり気付いていないかもしれませんが、要約、考察をしながらも日本語ライティングの練習にもなっていたと思います。毎回の私からのフィードバックと、それに対する皆さんからのリプライの「はてしない」やりとりがそれに該当します。そして、「読みにくい」論文もあえて課題に指定しています。さて、その理由は何でしょうか?



Q.「若者と社会」の履修経験者として、この講義を受ける際のコツを教えてください。

  • 予習レポートも講義も、段落ごとや話題ごとに何を述べたいのかをまとまりで考えながら行うと理解しやすいかもしれない。相手が読むということで、マージン(余白)、日付など読みやすくするにはどうしたらよいか、必須事項は何か考えながらレポートを作ることが大切だ。
  • 「就職に有利だから」や、「大学に通ってモラトリアムを楽しみたい」などといった理由で大学に通っている人は受けるべきではないと思う。きちんと自分が学びたいことがあって、そのことに対して真摯に取り組む覚悟がある人は受けてもいいと思う。でも最終的には自分で決めることなので、自分の考えに従って受けるかどうかを決めるべきである。
  • ミニッツペーパーのヒントにもなるので、講義中にはメモを意識的にとると良い。
  • レポートが大変に思うかもしれないが、興味深い内容の予習論文、講義だから、コツコツと努力して単位を取りたい人にはおすすめである
  • 一番重要なことはよく考えること。自分にとって興味のない話も多分この講義は多いと思います。でもそれらについて考えることで今までニュースとかで何気なく見てきたニュースとかに対する新たな見方ができるようになるかも。レポートの体裁は整える。
  • 簡潔にまとめること
  • 考察に自分なりのイラストや図を入れておくと分かりやすくなる。文章にすることだけが考察ではない。
  • 高い意識を持って臨めば、大学で必要な力が身につくことは間違いない。
  • 最初は、大変かもしれないが自分のためになると思って最後まで頑張ること。
  • 自分の固定観念や今までの経験などをあまり気にせずに与えられた事柄について考えると柔軟な答えを出すことが出来ると思う。
  • 自分の予習と講義内容がどう関連していて、どこが自分の考察と一致していたかを考えながら講義を受ける。講義中に自分が要約できそうな内容を発見し、今までの講義との関連を考える。
  • 常に疑問を持ちながら講義を聞く
  • 先生に教えてもらったことを参考にしながら、しっかりと自分の考えをもつこと。
  • 先生をリスペクトすること。
  • 当たり前のことに疑問を抱き、自分の立場と異なる視点からものごとを考察することが重要である。
  • 答えがないことが苦にならない人が受講に向いていると思う。
  • 毎回のフィードバックは難解なものもあるがしっかりと受け止めて考えることが大事。また、予習レポートは講義が終わってすぐには書かないで1週間しっかりとその問題について考えることが後半になって良いレポートを書くことに繋がる。この講義はまず考えてその考えを紙にまとめるという作業を繰り返すが毎回毎回しっかりとしたものを作ろうとする姿勢が大切だと思う。とにかく質を上げるという意識で取り組んで欲しい。そのうち慣れてきて要領はつかめる。
  • 予習レポートと、授業中のレポートを書くことに慣れる事が大切!また、社会で起こっている様々な問題に興味がある人は、履修をおすすめします。

来年度以降の後輩に向けて、この講義の攻略法をお尋ねしました。「リスペクト」は不要ですが、他のアドバイスは参考になるでしょう。なお、最後まで出席した学生は全員単位を取得した様子です。せっかく大学に入ったのですから多少なりとも難しそうな講義にも挑戦してみましょう。得られるものは少なくないはずです!

初期キャリアの「生きづらさ」

nyaaat.hatenablog.com
nyaaat.hatenablog.com
お盆休み、ニャートさんの記事を読み返していて、修士2年の頃を思い出してつらくなってしまった。新卒で入社した企業を辞めて大学院に進学したものの、研究の難しさに挫折して再就職先を探していた。その時期は依然として就職氷河期であって、第二新卒市場もそれほど育っていなかった。複数の人材紹介企業に登録していたけれども、持ち込まれる案件のほとんどがそれまでの経験を生かせるものではなかった。稀に「コンサルティング」という職種の案件が持ち込まれることがあったけれども、その実際は当時流行っていたあるニッチな分野における営業代行業であった。営業がしたくないというわけではなく、どうせなら代行ではなく自社の営業をしたいと思っていた。
そのとき考えていたことが、まさに「そうしてどんどん条件が悪くなり、非正規スパイラルを下りながら回っていく。レールにはもう乗れない。かといって、自分のレールを作ることも難しい」であった。当時、大学院にはキャリアについて「相談できる人や居場所」などはなく、「モデルケースも受け皿もない」そのものだった。そんな状況で修士論文を書き進めるのは非常に苦しかった。指導教員やゼミテンなど周囲に心配をかけるのは嫌だったので、再就職活動は何ら問題はないと言い張っていたのだが、実際には問題だらけであった。院生をしながら行っていた補習塾とお受験塾のアルバイトを継続するか、はたまた、少し手伝いをしていたNPOで薄給の仕事を行うかと覚悟を決めようとしていたところ、その年の11月、修士論文提出2ヶ月前にようやく再就職先が見つかった。極めて幸運に恵まれたようで、人材紹介企業を使わずに「ダメモト」で応募していた待遇が良く経歴を生かせる企業とご縁ができることになった。その企業についても結局は辞めることになって、再び大学院に戻ってしまうことになるのだけれども、それはそもそも何らかの「生きづらさ」に関係していたかもしれない。かくして、学部、大学院修士、大学院博士後期と3回にわたって同一の機関に対して入学金を納入することになる。
ニャートさんの記事において「生きづらさ」というタグが使われている。この言葉は偶然なのだろうけれども、大学院の指導教員が一時期よく使っていたものである。ただし、それは中学生、高校生の学校生活における困難を指しているものであった。他方、20代、30代、あるいは、それ以上の年代における「レールを外れる」ことなどと関連した「生きづらさ」について、私の研究分野の世界ではまだあまり理解することができていないのかもしれない。もちろん、「レール」などそもそも存在しない道のりを歩んでいる若者も大勢いる。高卒者のキャリアの困難を明らかにした研究はある程度の蓄積はあるものの、大卒者、大学中退者のそれはまだまだ不十分である。中学生、高校生のそれとは異なるであろう種類の「生きづらさ」とはいったいなんだったか。新卒で入った企業で希望していた編集職に就いてから数年後、心を病んだ同期のことなども思い出す。

『文系大学教育は仕事の役に立つのか』

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8月に『文系大学教育は仕事の役に立つのか:職業的レリバンスの検討』が刊行されます。
(出版社さんから掲載許可を頂いた書影です)
https://honto.jp/netstore/pd-book_29179035.html
(honto:本の通販ストア)

問題関心

長期的な価値創造や人類的な普遍性に文系の大学教育が「役立つ」ということは、もちろん重要である。しかし、文系の大学教育の意義を、そうした側面だけに限定して考えてしまうことは、実はむしろ他の重要な意義の看過につながってしまうかもしれず、また逼迫した国家財政のもとで大学教育という知的社会基盤を維持してゆくのに十分な説得力をもちうるかどうかも心許ない。それに代えて本書がデータに基づいて正面から吟味しようとするのは、次のような一連の問いである。すなわち、文系の大学教育でも、実は十分に仕事にも「役立っている」のではないか。または、文系内部でも学問分野や卒業後の仕事のありようによって「役立ち方」やその度合いは異なっているのではないか。もし「役立っている」のであれば、それにもかかわらず「役立っていない」と思われているのではなぜか。これらの素朴ともいえる疑問に対して答えを探す試みを、調査データの分析を通じて示すことが、本書の目的である。
本書が調査にこだわることには、さらなる背景がある。それは、「役に立たない」とされる文系の大学教育に、無理に枠をはめて「役に立つ」ようにさせようとする動きが、調査の裏づけなく進んでいるからである」
3頁

 このブログで何度か紹介してきたように、20世紀まで教育諸学の分野(一部を除く)では、教育の職業的意義を対象として研究することは学問の政治的価値の観点から避けられるべきことであるとされていて、かつ、小中高生に比べて数の少なかった大学生を対象とした研究もあまり行われていなかった。それに関連して、2009年刊行の本田由紀『教育の職業的意義:若者、学校、社会をつなぐ』(筑摩書房)において、「教育に職業的意義は不必要だ」、「職業的意義のある教育は不可能だ」、「職業的意義のある教育は不自然だ」、「職業的意義のある教育は危険だ」、「職業的意義のある教育は無効だ」という否定的見解が紹介されて、それぞれの否定に対する反論が試みられている(8-22頁)。現時点においても、こうした否定的見解に加えて、「職業的意義なんて、就業前にわかることではないから無意味だ」、「大学の存在意義を職業的意義に求めるなんて反動だ」といった趣旨の否定を見かけることがある。確かに、一部の学問分野は職業的意義から遠く離れているということによって、その存在意義を示そうとするのかもしれない。職業的であることに関してのみならず、いかなることに関してもまったく「役に立つ」知識ではないからこそ、世間から隔絶された大学で扱われるべきものである、そしてそれゆえに永く後世に残すべきものとして価値が高いという主張である。さらには、インターネットスラングの一つである「嫌儲」のように、一般的に営利行為を嫌う心情から―ブルデューの言う「文化と階級」の論点につながるだろうか―職業との接点を嫌うということもあるだろう。
 それらの否定的主張に対する理論的、歴史的な観点からの応答については、上記の筑摩書房の新書に示されている。他方、今回刊行された書籍においては、21世紀に入ってから少しずつ積み重ねられている大学教育と職業的スキルとの関係についての各種実証的研究をふまえたうえで、とりわけ文系の知識は仕事に「役に立つ」ことはない(だからこそ、国立大学の文系は縮小しよう)という風説に対して調査の結果をもとに反論することに注力している。もちろん、こうした研究に対して「相手(=文系縮小論者)の土俵(=仕事へ役に立つかどうかを評価基準とする)に乗るべからず、そうではないオルタナティブな価値を示せ」という反論も寄せられることになるかもしれない。しかし、同書のなかで繰り返し主張されているようにそれを行うだけの時間的猶予はあまり残されているわけではなく、また、オルタナティブな価値に対して理解を得る見込みも少ないであろうから、政財界プラス高等教育政策担当省庁の「相手」への反論材料として、こうしたデータに基づく研究が必要であると思われる(オルタナティブな価値はそうしたことの提案、説得が得意な研究者によって示されるとよい)。観念的な「べき論」ではなくデータを用いた反論があれば、ぜひ検討してみたい。
 私が担当した7章では、大学を卒業して就職1年目、2年目に相当する20名を対象とした聞き取り調査の結果を分析している。聞き取りは2015年8月から2016年6月にかけて実施したものである。聞き取り時点で従事している仕事と、学生時代の学習経験との関係をお尋ねしている。もちろん、すべての学習が必ずしも「役に立つ」と認識されているわけではなく、また、「役に立つ」かどうかにかかわらず授業改善が必要と思われるような指摘もあった。とはいえ、教員にとっては思いつかないような、新たな発見となるような「役に立つ」ことがらも示されている。かつて、私は大学院の指導教員から学校文化は「教員文化」「生徒文化」など複数の文化から構成されているのだけれども、各文化の間には衝立が設けられているので他所を除くのは難しいと教わったことを思い出すのである。
 20名の対象者の方につきましては、聞き取り調査に応じてくださいまして感謝いたします。こうしたかたちでお話しいただいた内容を成果にすることができました。



ご参考
科学研究費 基盤研究(B)「人文社会科学系大学教育の内容・方法とその職業的レリバンスに関するパネル調査研究」
科学研究費 基盤研究(A)「大学教育の分野別内容・方法とその職業的アウトカムに関する実証研究」