教育が直接的または間接的に、職業準備に資することによって、学校教育は社会に対して重要な役割を果たしてきた。職業教育主義は教育にとっても社会にとっても望ましい考え方であるように思われるかもしれない。「社会をよくするためには、もっと教育を。特に職業の準備として役立つ教育を」というように。
しかしながら、果たしてそれでよいのだろうか。個々の教育をどう組織すべきかを議論する以前の地点で、職業教育主義が描く世界には何か不十分な部分があるのではないだろうか。ここでは、限界と問題点との二側面から考えてみよう。
(第4章 職業教育主義を超えて)
139-140頁

筆者は Grubb & Lazarson のEducation Gospel のなかで提起された「職業教育主義」(vocationalsim)を引用して、教育の職業的意義論に対する批判を展開する。批判のポイントは複数あるが、なかでも留保付きながらも強調されるのが「職業教育主義」はその他の教育の価値を損なうということである。私は一方で納得できる部分もある。確かにそれは「個人化」や「競争の教育」を推進し、公共性や連帯という価値の存在を見えなくさせるのかもしれない。しかし他方で、それが筆者の専門分野で発展が遂げられた学問的方法で実証されたというわけではないこと、筆者が批判の矛先を向ける教育の職業的意義論はその他の価値を不要だとは主張するわけでないことの2点において、もう少し議論を深める必要があると判断するのである。ある価値とその他の価値が両立しないと主張する/その主張を否定するのだとして、(私なども含めて)より精緻な理論化と実証を進める必要があるのだろう。
とはいえ、私がこの論文に着目するのは、教育の職業的意義論に対する教育諸学者による批判が管見の限りでは他にほとんどないからである。これも私の狭い体験の範囲内ではあるが、ある世代以上の教育諸学者の多く、とりわけ教育学者は職業的意義を積極的に論じるのはイデオロギー上の禁忌であったはずだ。たとえば、清水への批判を、また、各種の職業教育論や産業教育論の位置付けを思い出してほしい。従って、執拗だが私の経験にすぎないが、大学院生が教育の職業的意義論に触れようとするものならば、厳しく咎められたのである―それは教育研究ではない、それは子どものためにならない、それは××に資するものだからけしからん、と。ところが不思議なことに、これらの教育学者は口頭ではそうした批判を述べるものの、それを論文にまとめようとはしない。「市民が求めているのは職業教育でなく普通教育だ」というような代弁的なエッセーさえ書こうとしない。職業的意義論を論文で批判するのは―それは、ある意味で鍛えようとするのは―唯一筆者だけである。なぜ、あれほどまでに嫌悪していた職業への言及に関する、現代的な議論の進展に対して批判しようとしないのか。
この回答を得るためには「経済学者学」にならって「教育学者学」が必要なのだろうか。

The Education Gospel: The Economic Power of Schooling

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