高卒女性の12年: 不安定な労働、ゆるやかなつながり

高卒女性の12年: 不安定な労働、ゆるやかなつながり

そのうえで改めて検討したいのは、高校時代の友人関係が維持され続けていたことの意味である。この友人関係は、序章で取り上げた先行研究で描き出されたような、親密で、相互に承認し合うような関係であることもあったが、そうした関係であり続けるということはなかった。しかし、同じ高校の卒業生たちのネットワークのなかにあり、生活する地域と階層文化とが重なる年上の人たちにも見守られるなかで、その関係は二度と接続できないほどに切断されるということもまたなかった。
こうした彼女たちが育んでいる関係はいかなるものとして理解できるのだろうか。私たちは、不利な状況に置かれた人たちが互いに承認し合っている関係、いわば強度のある関係を期待してしまいがちだ。厳しい状況のなかで生きていくには、自分たちのあるがままを受けとめ合うといった包括的な承認を育む関係が必要であると考えるからだ。その意味では、彼女たちは高校卒業後一二年を経た今、そのような関係にあるとは言えない。不安的な社会に翻弄されながら毎日を生きている彼女たちが、そうした関係を維持できないのは当然である。
しかし、彼女たちの関わり合いからは、承認よりも、確認という言葉で表現したほうがいいような関係を読み取ることができる。それは、常に連絡を取り合うことはないが、お互いのことはなんとなく気にかけている、そしてなんとなく気にされているという感覚をもてるぐらいの関係である。それは、SNSを媒介にしていることもあるだろうし、共通の知人を媒介にして形成されるものでもあるだろう。かつて時間と空間をともにし、一定の親密な関係をつくった固有名をもつ存在から、時にまなざしを向けられ、まなざしを返そうとする関係である。
226-227頁

この結論の一部は、主に東京都の東部にあるB高校出身者を対象とした継続調査の結果から提起されたものである。B高校は入試難易度の低い公立普通科高校であり、いわゆる「進路多様校」であると推察される。
日々の生活の厳しさへの緩やかなネットワーク(ほんとうは、私がここで「緩やかな」といった粗雑な言葉で回収してしまってはいけない、本書ではその複雑な特徴を丁寧に説明している)を介したぎりぎりの対応には、私たちの〈社会〉に対する微かな展望を確かに見出し得る。しかし、筆者やその研究グループには当然のように認識されているだろうけれども、高卒1年目の調査対象者は30人であったのに対して高卒5年目ではそのうち17人、さらに、本書で厚く紹介される高卒12年目ではそのうち4人(+うちそのパートナー1人)に減少していく。調査対象者にはそれぞれにご事情があり回答の義務があるわけでもないことを前提としたうえで、なお、お話しを継続して伺うことのできなかった方について、結論で述べられたネットワークが同様にあるといえるだろうか。B高校の学校文化の「ノリ」に合えばよいのだろうけど、そうではない事例も少なくはない印象を持ったのである。
もう一つ、紙幅の都合で必ずしも十分には書かれなかったことで気になったのは階層文化と特定の地域文化との関係である。親が子どもと同じような、また、親が子どもの友だちの親と同じような発達の課題、生活の課題を経験しているがゆえに、子どもを含めた知り合いみんなと問題意識を共有できるという指摘はなるほどと思った。同時に、そうした関係性がある部分では階層文化として、しかし、ある部分では特定の地域文化として描かれているように見えることがある。もちろん、両者に重なりはあるのだろうけれども、重ならない部分がどうなっているのか、なお課題があるようにも(専門を異にする)私には思われるのである。
ともあれ、良い研究である。あとがきに

「私のこんな話、役に立つんでしょうか。」インタビューでこの言葉を聞くたびに、聞かせて頂いた話をきちんと書き残すべき自分の責任を感じてきた
236頁

とある。私たちの〈社会〉をより良いものにするために、こうしたお話しはとても重要なのである。