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続・心を動かすプレゼンなど要らない

FD FD

http://d.hatena.ne.jp/sakuranomori/20150101 心を動かすプレゼンなど要らない
このエントリの続編である。


大学の講義で授業内容の詳細、要点、要約、キーワード、参考資料などが記された印刷物(プリント、ハンドアウト、レジュメ)が配布されるのが「あたりまえ」となったのは、いつの頃からだろう。80年代に大学を卒業した方からは印刷物の配布はあまりなかったと聞くことが多い。そして、大学の付近には誰かが作成したノートを販売する業者がいたという述懐も伺うことがある。一方、90年代の卒業者からは印刷物の配布は「あたりまえ」であったのかもしれない。日本語ワードプロセッサーの普及、マス化の進行がその理由の一部であるのだろうか。
授業内容の詳細を配布する教員には、学生はノートを書く手間がなくなり、その節約された時間は思考を深めることに使われるはずだという前提があるのかもしれない。しかし、その前提は思い込みに過ぎない可能性もある。


山口住夫、2010、「大学の授業方法改善の試み:ポータルを活用した授業方法」『福岡大学工学集報』84、1-7
http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso/Kogaku/T84/T8400_0001.pdf

以前には、すべてを書き込んだ講義ノートを作成し、これを印刷して配布したうえで、同じものをOHPで投射しながら説明を行っていた時期もあった。学生の板書のための時間と労力を省き(二宮注:著者が板書するための時間、労力)、その分説明を丁寧に行うつもりであった。しかしながら、この方法は以下の理由で学生には不評であった。
1 すべてがプリントに書いてあり、書き取る必要がないので、注意を集中しておくことが難しい。
2 書かないので、覚えない。
3 先生が板書することなく説明するだけなので、進行が早くノートを取る時間がない。
4 OHPによる説明では1枚の説明が終了すると、黒板と違って画面が残らないので、ノートが取りにくい。

鹿児島大学FD委員会FDガイドWG、2014、「授業改善のためのヒント(2)」
http://www.kagoshima-u.ac.jp/education/FDguideVol.7.pdf

パワーポイント等を利用すると、多くの情報を映写することが出来ますが、学生が書き写せないような早さで画面を切り替・えてしまうことが起こりやすく、配布プリントに全てのスライドを印刷しておくと講義を聞かなかったり、画面を見なかったりする受講生も出てくると言われています。配布プリントには要点をわざと書かないで、学生に書き込ませるとか、ファイルは後で Moodle からダウンロードさせる等の工夫をする先生もいます。

熊本大学ティーチング・オンライン「Home>授業改善のアイデア>こんなときどうする?>みんなでつくる虎の巻> 授業計画に関する悩み」
http://kuto.kumamoto-u.ac.jp/index.php/idea/toranomaki/1

学部の3・4年生の講義を担当して感じることです。指定したテキストを購入せず、もちろん参考文献も読んでおらず、講義に関するレジュメ配布を希望するものが多いことは周知のことかもしれませんが、近年では教員が話すことをノートにとることが苦手な学生が増えている傾向を感じています。将来仕事について、相手に話の内容をレジュメでほしいなどとはいえないのだから、自ら重要な事柄を話を聞いて書き取る技術は重要なだのだと、あえて説教をしたりすることもあります。おそらく小中学校でプリント配布による穴埋め的な授業を受けてきた弊害ではないでしょうか。私も授業では、レジュメを作ったり、パワーポイントやビデオを見せたりと視覚的な興味を与えることも試みていますが、時には教育的配慮で板書だけでノートをとることも強制したりと、試行錯誤です。現在の授業評価においても、レジュメの配布や、AV機器の活用状況を評価項目とされておられますが、消費者的な学生の要望として出がちであるレジュメのあり方について、一考が必要ではないかと感じています。学生へ教育的訓練の機会を提供するという意味からは、資料的なものの配布にとどめる、自らメモる技術を体得させるなど、節度ある教育方法のあり方が、社会人としてひとり立ちできる人材を養成するためには必要ではないかと感じています。



以上の3つの例は、教員、学生の双方が配布物に依存してしまうことについて疑問を呈したものである。私としては、第1に「消費者的な学生の要望」が気になっている。ネットでは配布物がない授業に対する極めて強い不満と、それに付随して配布物を収集することが勉強の目的になってしまっているような動向を見かけることもあるからである。まだ第2に、「メモる技術」に同意するところである。大学卒業後の職業生活などにおいてメモを取ることは日常的なことになるからである(NIT「大学での創造的学び」の受講者の皆さんは、現場、顧客、上司などのキーワードで思い出すことがらですね)。大学の講義でこうしたスキルをそれだけ取り出して習おうというのではなく、一般的な教養教育、専門教育の講義を受けた結果として身に付ければ十分である。
しかしながら、だからといって、ノートを取ること(ノートテイキング)だけが学習上の効果が高いともいえない。学習心理学や教育工学などの知見は、私の安易な理解を否定する傾向がある。詳細については論文を参照してほしいが、スマートフォンによる撮影とノートテイキングとを比較した実験では記憶、理解に統計的有意差が生じない(赤堀侃司、2015、「スマートフォンのカメラ機能とノートテイキングの学習効果に関する比較研究」『白鴎大学教育学部論集』9(1)、53-67(http://ci.nii.ac.jp/naid/110009912360 ))、講義の特徴に応じてノートテイキングの有効な方法(方略)は異なるかもしれない(野中陽一朗・井上弥、2014、「ノートテイキングに関する探索的検討:講義の状況的特性に着目して」『学習開発学研究』7)、45-49(http://ci.nii.ac.jp/naid/120005439999 ))ことが主張されている。
なんともモヤッとしたエントリである。最後にもう1つ、モヤッとした投げ掛けをしておこう。


浦上のちょっと学生に聞いてみました―板書に対する意識
南山大学ホーム >日本語トップ >学部・学科 >心理人間学科 >特集 >学生に聞いてみました >板書に対する意識
http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/JINBUN/Shinriningen/tokusyu/gakusei/02.html

★教授側の手抜きの場合が多いと思う。高校までの先生に比べて、話がそれほどうまいと思う人が圧倒的に少ない上に、教室がやたらと広い、学生が多い(部屋の中では人間の体は音を吸収する働きがある)声が小さい、という状況で、口頭だけで全てを伝えることは困難であるはずだ。そのために、ある程度の最低限の板書や、プリント配布は絶対に必要である。自分の口述に絶対的な自信がある人以外は、板書する責任があると思う。自分の言ったことへの責任を持つためにも。



こうした意見に対して、どのようなアドバイス(示唆?反論?)が可能であろうか。大学とは何かという問いと同型の質問である。