高等教育の社会学 (高等教育シリーズ)

高等教育の社会学 (高等教育シリーズ)

第10章 高等教育政策研究のための社会学的枠組み

 政策や政治の研究が、急速に高等教育研究の中心的な下位領域になってきている。高等教育システムの進化と発展において、公共政策がより重要になるにつれ、それに付随して政策、政治、ガバナンスに関する研究が増加してきている。研究者や学生は高等教育政策のダイナミクスを説明するために、新しい魅力的な概念や枠組みを求めている。しかし、利用可能な分析の中では、有用だと証明されているものはほとんどない。近年になって政治学( political science )の分野から政策過程モデルがこのギャップを埋めるために利用されてきたが、社会学および組織研究から援用された理論は、高等教育政策に関する我々の理解を進める大きな可能性を持っている。企業や非営利組織の理論が、大学の行動[本章では action と behavior が混在して使用されているが、前者を行為、後者を行動として訳出している]を理解するのに非常に貴重であったのと同様に、同じような社会学理論が政策過程分析のために利用できる。政策立案者は他のアクターと孤立して活動しているわけではない。かれらは組織―議会、委員会、機関―に埋め込まれており、そしてそうした[組織の]すべては政策立案者が行動を決定する際に役立つ影響力、実践、慣行を発展させている。その結果、組織社会学の研究から生み出された概念が、政治的行動を分析し、政策過程の知見を高めるために有効に利用できる。
 この章では、高等教育の政策・政治を研究する際に利用できる様々な組織理論や社会学の概念を検討する。これらには、組織戦略の概念、組織プロセスにおける利害や機関の役割、組織のリーダーによる象徴( symbol )の使用と象徴的行動、および組織フィールドに適用される制度固有のロジックの分析が含まれる。こうした作業は必ずしも理論的な可能性を網羅的にレビューするものではないが、これらの組織のプロセスのいずれもが、高等教育の政策形成過程に重要な影響を与えており、慎重に検討する必要がある。社会学的な枠組みを検討する基盤を足固めする、まずは政治学から援用された政策過程に関するいくつかの既存の理論をレビューするが、最初に組織社会学に強く影響を受けている理論からはじめたい。

政策過程論

 政策過程論は政治学における制度学派―社会学的制度主義( March and Olsen 1984; Scott 2001)と関連しているが若干異なっている―に依拠している。両学派とも、単に個々のアクターや利益団体との相互作用を検証するのではなく、組織が意思決定をする際の組織構造、環境、行動の影響を詳細に考察する。政治的制度主義は政治的行動に主に焦点を当てるのは当然であるが、社会学者は制度の類型―その中で政治的制度は一つの特別な類型にすぎない―の幅広い多様性に広範に焦点を当てる。
 高等教育政策と政策形成の研究において、研究者がこの研究分野の空白を埋めようとする際、政治過程論は有力な理論と見なされるようになった( McLendon 2003a; 2003c; Pusser 2003, 2004)。政策過程に関してはある時期までは記述的な分析が一般的であったが、それらの分析は連続したインクリメンタル[増分主義的]なアプローチを強調した( Bendor 1995; Easton 1965; Laswell 1948; Lindblom 1959)。今日では、ゴミ箱モデルから断続平衡モデルや衝動連携モデルまで、新たな理論の品ぞろえも十分であり、教育学の研究が政策過程を研究する際に役立っている( Sabatier ed. 1999 )。しかしながら、これらのモデルはごく最近現れてきたため、高等教育政策への適用の有用性は十分に検討されていない。これらの新しい理論が、高等教育の政治についてより多くの重要な新しい研究を触発し、我々の理解を高めてくれることは疑いない。
(略)
 これらの理論の高等教育への適用は比較的新しい現象であり、少数ながらも急成長している研究者の集団に限られている( McLendon 2003c )。そうではあるが、こうした理論はガバナンスや高等教育政策における問題に対して幅広い適用可能性を持っており、単独あるいは他のアイディアと組み合わせてアジェンダセッティングのプロセスの解明が進むことは間違いないが、しかしどの枠組みが高等教育の研究者と実務家にとって最も有用であり、また最も理解の助けになるかはいまのところまだ不明である。同時に、我々の知識を向上させるには、別の学問的な系譜から、これら以外の枠組みを検討する必要もある。
381-385頁



私が教育学、教育社会学の先生方から頂いてきた主な批判は少しだけ思い出してみる。第一に、教育政策は教育学によって研究されるべきものであって、政治学や社会学を用いてはならないというものである。もちろん、政策過程論を用いる研究は厳しく否定(批判ではない)される。私の印象では専門を教科教育とする一方、政策研究もなさる方から頂戴することが多い種類の批判である。ただし、教育学による教育政策研究というもので、そのときに示した私の問題意識を捉えることができるのかはわからない。そこでの教育学とは教育行政学とも異なるようなのだ。第二に、教育政策研究は官僚や政治家のねらい(イデオロギー)の解明を行うべきものであって、それ以外の研究には価値がないというものである。そこで対象となることがらの「教育的価値」とは何かが問われることになる。これは学生運動世代やその前後の方から頂くことが多く、そうした方々は政策形成を極端なエリート・モデルで把握なさっていることが垣間見える。しかし、その世代の教育学者、教育社会学者の一部がエリート・モデルの立場を取りながらも、それに「立ち向かう」市民、住民が政策―たとえば、地域教育計画―を変えさせたという「物語」を美談や成功談として取り上げることに不満を覚えるのだ。市民、住民は結果として政策形成に関わったことになるのに、分析の対象外になってしまっているのである。
ところで、かつての教育政策を研究する際、個人に着目することは魅力的である。多元主義の立場を取る限りで、個人はアクターと言い換えてもよいだろう。私が関心を持つ時代では、清水義弘(学者)、西田亀久夫(官僚)、西岡武夫(政治家)、現在ならば下村博文(政治家)が挙げられるだろうか。ある政策を俗人的なことがらに還元して説明したい誘惑はとても強い。特に、ねらい(イデオロギー)を明らかにしたければなおさらである。しかしながら、政策過程論は、いや、それだけでなく関連する他の学問分野の多くはそうした手法の限界を強く意識する。政策もまた「システム」「組織」「環境」のような個人ではどうにもならないことがらに影響を受ける。誰が悪い、と単純化することはできないのである。



この続きは、本年度の教社、若手研究者交流会ラウンドテーブル「歴史研究の実施とプロセス」にて。どこが歴史研究なんですか、という質問を楽しみにしている。その問いにもまた、歴史研究のあるべき姿に関する論点が含まれているはずである。


ところで、教育政治学とは何だろう。