大学の授業

大学の授業

FDのひとつのモデルが民間企業における研修のような経営学を援用するもの、またひとつのモデルが教育工学を活用するものであるとするならば、それらとは異なるモデルが言わば「師範タイプ」である。
筆者は厳しい教員である。教員ではなく「教師」と言うべきか、文章中の表記は「教師」で統一されている。学生の多くはこうした「教師」を苦手とするだろう。講義のはじまりとおわりには、かならず起立、礼をさせたうえで、私語・居眠りは厳禁するとのことである。学生は「野卑」・「山ザル」(はじめに4〜5頁)であって、「いたって未熟・粗野ながきにすぎない」(26頁)そうだ。

読者の中には、学生に対する私の言葉使いがあまりに威張っていると思う人もいるかもしれない。
まず実状を知らないでの批判はご連慮頂きたい。
使う言葉の種類は、大よそ次の範囲である。
相手についての代名詞……「きみ」・「おまえ」(男子にも女子にもそうである。)
自分についての代名詞……「私」・「おれ」(私は自称には、ほとんどこの二つしか使わない。自宅では、「おれ」である。)
命令文……「前に座りなさい。」「前に座れ。」
この範囲どまりであって、学生に対しては、これ以上ていねいな言い方はしない。
25頁

あくびは、私語とは違って、近くの学生のじゃまにはならないという理由によるのか、何も言わずに認めている教師が多いようだ。
しかし、私は許さない。授業という仕事をしている場では、そのような非礼を認めるべきではない。大学は、社会の中のおとなの仕事場での常識を教えるべきである。
(略)
さらに、教師の前であろうとなかろうと、一人前の仕事を持ち、それにうちこんでいる、誇りのあるおとなは、仕事で自宅から外に出たら、あくびなどという、気迫を欠いた、たるんだざまを見せてはならない。一歩外に出たら敵だらけだと思い、あくびというすきを見せるべきものではない。私は今まで仕事の場であくびしたことが無い。
110頁

「○○君、『ウワバミ』って何だ?」
彼は消えいるような小さい声で「わかりません」と答える。
私はあえて「聞えない。全員に聞えるような声を出しなさい。まず起立しないと大声は出ない。」と言って立たせる。私は教室の隅(つまり彼から最も遠い位置)まで急いで行く。「ここで聞える声を出せ。」と言う。(身軽・気軽にこういう行動をするために履物は軽いものにする。)
彼は再度「わかりません。」と言う。今度は全員に聞える。
授業は全員でする営みだと思っている教師なら、全員には聞えないような小さい声の発言をそのまま許容してはならない。
私は言う。「君が『わからない』ということはわかった。あらためて聞くが『ウワバミ』とは何だと思っているか、無理やり言いなさい。」
彼は言う。「鳥の名前ですか。」
私は言う。「よし!よく大きい声で答えた。しかし、答は違う。」
私は、この○○君を「出ておいで。苦しうない、近う寄れ。(笑)」と教壇のところへ呼び出す。「答は違うけれど、『無理矢理』考えて大きな声で答えのは良かった。ごくろうさん。」と言って、ほうびの本を与える。
ほうび用の本はカバンいっぱい入れてある。私が既に読んだ文庫本(小説やノンフィクションなどで学生に読みやすいもの)や、一、二週遅れの雑誌、例えば『アエラ』・『週刊金曜日』・『ニューズウィーク』等である。読書させるには、気軽に多量に読ませねばならない。ほめる種を見つけるよう努力して、本を与える機会を作る。
32-33頁

教育という営みは権力がつきまとう。でなければ、自分が知っていることをあえて他者に問うことなどできない。しかし、権威をふりかざして学生を服従させるような方法には納得することができない。「消えいるような小さな声」しか出せない理由は、その講義を担当する教員の形式的な威圧か、あるいは、それまでの学校体験のなかで学生が教室内で味わった嫌な思い出―たとえば、何を発言しても教員や周囲の生徒から批判されるなど―にあるようにみえる。もし、その講義の回の目的が全員に聞えるような声を出すことなのであれば、その責任を学生個人に求めるのではなく、それを可能にする雰囲気づくりのあり方を考えさせることこそが重要なのではなかろうか。
学生にとって、教員から本や雑誌の「ほうび」をもらうことはどのように感じられるだろうか。私の推測は嫌で嫌でしかたがない、である―この著者がおそらく好きではないであろう雑誌が挙げられているのがなんとも…。いずれその感想を述べなければならないと構えてしまうので、教員から頂いた本を「気軽に大量に」読むことは容易ではない。「ほうび」によって勉強の動機づけが図られたと思われるのも気分が悪いはずである―ところで、挙手を経ての発言、リアペ、LMSの書き込みに対して形式的に加点をする場合、こうした問題の存在を忘れないでほしい。
あくびについては、確かに私は会社勤めの際、上長に叱られたことがある。しかし、上長のあくびを私が指摘すると、そこからコミュニケーションを取ることができるのだ、単に謝るというのは考えが足りない、と半ば言い訳がましく、しかしながら、半ば真剣に諭された。「釣りバカ日誌」のハマちゃんを想像してほしい。たとえ失敗しても機転を利かせることができればいい。その意味で、あくびを全否定するというのは柔軟性に欠けた行為に思えるのである。筆者がたびたび言う「社会の常識」は、あまりにも型にはまったものが想定されているのではなかろうか。

このリポートは、B5判四百字づめ原稿用紙縦書きであり、一枚である。一枚である理由は、君たちには、まだ二枚以上書く力が無いからである。二枚以上書くと、目が届かず荒れた粗雑な文章になる。一枚という長さの範囲でよく目を光らせ考えた文章を書いてもらいたい。
61頁

レポートの取り組ませ方については、とても参考になった。私は2,000字程度のレポートを課すことが多い。私としては筆者の主張通りにそれでも長過ぎで―それ以上字数を増やしても冗長になるばかりである、しかし、学生からは短すぎて書きたいことが書けないという意見を聞いてきた。形式を整える、推敲を繰り返す、これらを目的とするのであれば字数を400字に限定するのはよいかもしれない。
最後に、次の筆者の問題提起はFDで検討したい。とても面白い。

講義で教師が話して聞かせる。口頭で話すくらいなら、そのとおりを印刷しておいて予め読ませればいい。(本や雑誌論文にすればいいのだが、今日のワープロやリコピーのような個人印刷技術なら容易なことである。)
文章を読むのならば、学生各自の思考に応じて、ゆっくり読むことも早く読むことも出来る。途中で前方に戻って読むことも、いきなり最後の部分を読むことも出来る。くり返し読むことも出来る。符号や言葉を書きこみながら読むことも出来る。
大学教師諸賢に問う。なぜ、このような利点を捨てて、何の意義も無い〈講義〉という因習に頼るのか。
41-42頁

研究者でも学者でも教員でもなく、「教師」に対して問われているのである。




第12章と結論において、千葉大学の普遍教育に対する筆者の批判が書かれている。千葉大学独自の問題のみならず、すべての大学の一般教育(教養教育)に対する「師範学校」、とりわけ東京高師の歴史的文脈からの批判であるように思われる。この論点については、千葉大学のセンターの先生と一緒に考えてみたい(チラッ。