建築空間に対する社会学による分析

著者からお送り頂きました。ありがとうございます。


 本書の課題は次のように提起されている。

本書では、2で整理した先行研究の着眼点と示唆をもっとも包括的に汲み取ることができる理論枠組として中期フーコーの権力論を参照し、建築をその空間構成や物質の配置によって、人々の行為や心理に何らかの継続的作用を与え、その結果として何らかの主体性を構成する技術の一つと位置づけたうえで、それが実際どのように人々に対する作用を想定して設計されてきたのか、またそのことで私たち人間のどのような主体性が構造化ないしは喚起されようとしているのか、そしてそれは建築に関連するどのような諸条件との関係性のなかで可能になっていることなのか、ということをいくつかの事例から考えていきたい。
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 その課題を解くために著者が用いた手法は「ぜんぶよむ」である。これは自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究でも行われていた、ある対象について「何が語られてきたのか」包括的に調べるものである。たとえば、第二章「アクティビティを喚起する学校建築」では、戦後の学校建築に関する書籍、博士論文など294点、建築雑誌96件、その他の学校建築に関する先行研究、そして、建築家の著作などを、第三章「オフィスデザインにおけるヒト・モノ・コトの配置」では同様に書籍138冊、建築専門雑誌、オフィス専門誌が読み込まれている。「ぜんぶよむ」という作業を行ったうえで上記の枠組に照らし合わせて解釈を施すという研究方法は、専門分野の異なる当方にとっても大変参考になるものである。そして、おそらく本書の特徴は、人びとは新しいお洒落な建物によって、ありのままに振舞うことができるように感じつつも、実はそうとは気付くことができないまま合理的に、柔らかく、ローコストで管理されているのだといったような簡単な結論にはけっして陥らないところである。たとえば、かつての大学での教育学などの講義では、日本における学校の教室はなるべく費用をかけずに多くの児童、生徒を1か所に集めて管理することが可能になっていると教えられたかもしれない。しかし、イマドキの学校は教室間の壁がない、あえて曲線の構造物にしてある、隠れ家的謎スポットがいくつもあるといった特徴をもっていることがある。それに対して、実はそれは新たな管理手法にすぎないのだと主張することは簡単なのだけれども、そうした解釈では収まらない何かがあることを示唆するのである。
 「ぜんぶよむ」という手法のために、書かれたきたことについては明確に整理が行われている。他方で、その手法の制約ゆえに児童、生徒がお洒落な学校でどう過ごしどのように感じていたのか、ビジネスパーソンがかっこよく居心地のよさそうなオフィスでどう過ごしどのように感じていたのかについては、残された課題となっているであろう。このことは、先ほど「専門分野の異なる当方」と書いてしまった私に対しても跳ね返ってくる課題である。というのも、高等教育においても「大学改革」の文脈において同じようなアクティブでクリエイティブな空間の構築が意図されてきたからである。個性的なデザインの「居場所」に学生が集まって談笑している写真は大学の宣伝広告でよく用いられるようになっている(なお、一時期よく宣伝に使われ人気にもなった可動式勾玉型の学生作業デスクは高額であるために、導入済みの大学を見るたびにため息が出てしまうこともある)。同時に、学生はみんながいつも一緒にいればいいというわけでもなく「ぼっちカウンター」のような一人で集中できる場所の重要性も認識され、紹介されることもある。そうした場所で、設計者による意図どおりに学生が動き、ものを考えているのか、あるいは、その意図に外れた何かが生じているのかまだよくわからないところである。高等教育の研究課題として放置されてきたともいえる。
 ここまで本来であれば言及するべきであるのに、あえて触れていないものがアクターネットワーク理論である。本書では当然その検討は行われているものの、当方がその理解を不十分なままにしてきたためである。アクターネットワーク理論入門―「モノ」であふれる世界の記述法などの文献を勉強した後で再読する必要があるのだろう。