先日、一橋リアル熟議に関する自主ゼミを行いました。私のレジュメの一部を転載します(希望者には現物を配布しています)。「『限界』を指摘してもらわないとわかりません」という東大生に対するサービスでもあります。
リアル熟議の目的が、当初の企画案どおりに「解決策を編集・創造する」ということにあると仮定します。この場合、二重のズレが論点として挙げられます。
第一に、副大臣が提案する社会構想における熟議と、実際の熟議にはズレがあることです。バーチャル熟議の問題はすでに関連する懇談会等において言及されていますので、ここでのテーマはリアル熟議に限定をかけます。Skocpolの枠組みに依拠してみると、副大臣の構想はすでに失われてしまった過去の米国型メンバーシップに親和的です。Skocpolは、「米国の伝統的な自発的結社は、いくつかの間接的なやり方ばかりでなく直接的にも、積極的な市民性を助長し、政治や統治に影響を与えた」といいます。これは、草の根ボランティアと地方政府、中央政府の「政治」が素朴に結び付いていることを意味します(ただし、その結び付き方は多くのページを使って説明しなければならないほど複雑です)。現代で言えば、ティー・パーティを想定すればよいでしょうか。しかし、米国はこの理想を喪失することになります。「代表制ガバナンス体系を有する全国的な自発的メンバーシップ連合体から専門家が運営するアドボカシー・グループへ」と転換が生じたのだというのです。「エキスパートが主導する非個人的な選択的アクティベーションの政治が現代にもたらす全体的な結果は、人々の参加動員をひどく阻害してしまう可能性がある」と決して楽観視できない状況にあることを指摘します。たとえば、ティー・パーティは必ずしも自発的な営みばかりというわけではなく、専門家による組織的な動員があるともされることを意味するでしょうか。リアル熟議も同様に、決して草の根ボランティアとは言い難い側面を有しています。文科省、プロのファシリテーター(企業研修の専門家、メディア関係者、IT関係者など)によってお膳立てされた(マネージメントされた)形態をとっています。草の根的なものと「政治」との素朴な結び付きを演出しつつも、プロによる周到な準備のうえで運営されています。この点は熟議全般にいえることですが、熟議の参加者は事前に選択されています(文科省の資料によれば、教職員、保護者、学校・地域ボランティア、教育政策(議会・行政等)、学者・研究者、学生、事務職員(科学・技術関係)、アスリート、スポーツ関係者、アーティスト、文化芸術関係者です)。このことは、Skocpolの懸念である「人びとの参加を妨げて、民主主義を衰退させる」ことにならないでしょうか。教育に関わる人びとをこれらのメンバーに限定することはできません。
第二に、副大臣が提案する熟議を重視する社会構想と、大学の実態にもズレがあることです。副大臣は「代議制民主主義の補完としての熟議」を掲げるわけですが、とりわけこの20年間弱、大学はその内部の民主的な仕組みを壊されてきたという歴史を持っています。一橋生に身近なテーマとしては、学長選考がわかりやすいでしょう。20世紀の終わり頃まで、学長の選考に際して学生や職員が除斥投票を行うことが規則に定められていました。ところが、この制度は当時の文部省からの指導/注意/圧力(?)、で廃止されます(興味があれば、ベテランの教員に「メモ問題」って何ですか、と訊ねてみて下さい)。その後、「学生参加制度」という投票制度が設けられましたが、その投票結果にはまったく拘束力がありません。これはほんの一例であって、大学内部で民主的であると認識されてきた様々な仕組みが「大学改革」にとって不要なものであるとして換骨奪胎されてきました。同時に、学生もまた大学内部の民主的な仕組みへの関心を失いつつあります。学長選考の投票率は致命的といわざるをえないほど低迷していますし、また、自治会もあまり機能していません。学長選考や自治会は、学生の意志を集約、決定する、いちおうは「正統性」のあるものとみなされる仕組みでした*1。それらを活用できる限りにおいて、副大臣の言う「代議制民主主義の補完としての熟議」に意味がないわけではないのでしょう。しかし、そうした民主的とみなされてきたものを壊しておいたうえで、「代議制民主主義の補完としての熟議」の必要性を主張されても、まったく納得できないのです。学生の皆さんには「代議制民主主義」の存在しないところにおけるリアル熟議の意味を考えてほしいのです。ある種の職業の人びとには(その職業への内定者を含む)これらのズレを都合よく無視する能力が必要なのかもしれませんが*2、少なくとも一橋生の皆さんにはよく考えてもらいたいのです。
なお、リアル熟議の目的が「じっくりとホンネで議論する」ことにある場合(「解決策」は二の次である場合)、そのことが参加者、特に教員や卒業生に理解されているかどうか、危ういのではないかと思います。
教育と政治の関係(大学の場合、外国からの「圧力」を巧みに利用した教育内容の統制―工学、そして、近い将来には経済学)、教育を「満足度」の指標で測ることができるかどうか、リアル熟議に適した/適さない政策領域といった論点*3もあるのですが、それは機会があれば別途検討します。

*1:一橋の自治会は外部の政治集団に支配されるようなことがなく、言わば大学の自治会らしくない特徴がありました。学生時代の私はアルバイトに忙しく、自治会活動に時間を割くことができる学生を羨んだり蔑んだり(?)していましたが、自治会の中心的スタッフからみれば私はただのフリー・ライダーだったのでしょう。

*2:意志の集約、決定の「正統性」の根拠を政府や大学の(副)学長といった権威に求める志向は、私はまったく賛同できません。

*3:たとえば、ただの思い付きですが、NIMBYは適しているかもしれません。