国立大学教員数―増えた分野はどこか

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衆議院議員河野太郎公式サイトに掲載された国立大学教員数に関して、実感に合わないというお声を複数聞いた。そこで、私なりに整理しなおしてみた。
表1は3年ごとに実施される「学校教員統計調査」のうち、「大学等の部―教員個人調査―年齢区分別・専門分野別・本務教員数」の数字を並べてみたものである。社会科学、工学、保健、その他で増員の傾向が見られる。特に増えているのが保健である。ただし、このデータには任期付教員も含まれている。「学校教員統計調査」で調べられている離職教員数について、保健は毎回1,000人以上となっているのでかなり流動的な分野なのであろう。
お昼休みの時間を使ってまとめただけなので、今日はここまで。時間があれば、職階別、年齢別もまとめてみたい。定年延長が何かに影響を与えているという仮説も残されている。また、その他とはいったい何なのか(FDer?URA?)。

大経コース@東大研究会

本日は東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策コースの研究会「大学のマネジメントに関する勉強会」にお招き頂きました。各大学の職員さんや若手高等教育研究者が集う会で、私はとても勉強になりました。ありがとうございました。私がお話ししたのは、6月中旬に刊行された『反「大学改革」論:若手からの問題提起』では書ききれなかったことと、そこで触れた補助金政策に関連して、現在進行形で生じている「ブレインドレイン」(頭脳流出)についての論点です。前者については同席なさっていた経済学者の方より、仮に大学改革がかつての「産業政策」と同じように政府からの誘導という性格を持っているとするならば、その成否は危ういだろうという指摘を頂きました。確かに、かつてであれば「産業政策」は成功したモデルとして肯定的に言及されることが多かったものの、今では批判的に吟味されているはずです。高等教育に関する各種のプログラムについても、優秀な官僚によって誘導されるというのではなく、「市場」に任せるという方法もありうる構想なのかもしれません。
後者については、最近気になっていたことを自分なりに整理する機会となりました。「ブレインドレイン」に関して、社会学で議論されてきたグローバリゼーションの諸問題を思い出していました。たとえば、第1に、グローバリゼーションによって、大企業は税率が低くインフラの整った国家へ移動していくこと、国家は大企業を誘致するための競争を始めること、労働運動は無効化されること、その辿り着く先にあるのは徴税能力を失う一方で失業した国民に対して給付するサービスの増加であるということです。第2に、グローバリゼーションはかえってローカルな価値を呼び覚ますということです。国家や地方への愛着が増し、地域ナショナリズムの台頭を誘います。第3に、グローバリゼーションにとって、エリートはいつでも不都合な場所から逃げ出して国境を飛び越えて活躍できる一方、残された人びとはますます困窮化するといった階層の分化が進むということです。以上のことについて大企業を学者に置き換えた場合に、とりわけ右派からの反発は強そうな印象を持っていました。日本国内で補助金を受けて養成された学者が他国で活躍するとき、学者個人にとっては望ましいキャリアである一方、「納税者」*1がそれを許容できるでしょうか。優秀な学者から薫陶を受けるためには国外へ出なければならない時代が到来するとして、それを好ましくないと評価する方もいるかもしれません。特にローカルな価値に目覚めた「納税者」は「国益」を気にして学者の国際的な移動を否定する可能性もあるでしょう。
実はこれらの問題は、教育学では「村を捨てる学力」というテーマで考え続けられてきたことでもあります。昭和30年代の閉鎖的で生産性の低い農村において、子どもに教育を施すことによって村を豊かにしようとするのだけれども、結局は子どもは都会に出てしまって村はそのまま取り残されることについての問題関心です。まさしく、上記の第3の例と同じことです。期待を受けて育成された学者なり農村の子ども個人のキャリアと、国家なり村なりの存続・繁栄はいかにして両立可能なのか、そうした論点を提起しました。なお、インターネット上の掲示板では、やはり「ブレインドレイン」に対しては右派の立場からの否定的な見解がかなりあるとのことでした。
継続的にこうした問題について考えられる機会があれば幸甚です。

*1:「納税者」概念を持ち出すことの危険性については以前に言及したとおりです。ここでは、あえてこの言葉を使っています。

鍵のついた書籍を読み上げる時代からの長い伝統を持つ講義法について

講義法 (〈シリーズ 大学の教授法〉2)

講義法 (〈シリーズ 大学の教授法〉2)

待ち望んでいた書籍が出版された。たとえば、これまでアクティブ・ラーニングに焦点を絞った関する良書は複数刊行されてきたものの、日本語で書かれた「講義法」についてはあまり良いものがなかったように思われる。教育学に依拠して書かれたものは理論ばかりに着目していて、実践的なものではなかったといえるだろう。しかし、この本は実践的であるうえに、読み手である学者を満足させられるようなその実践を支える理論(心理学、コミュニケーション論など)も紹介している。単なる授業方法のハウツーを示されただけでは納得できないという学者のことをよく考えているのである。
ところで、アクティブ・ラーニングに対する批判の類型の一つに、講義/座学こそがアクティブ・ラーニングであるというものがある。「アクティブ」というと身体を動かすとイメージがあって、その中には精神的な知的活動も含まれるはずであるという主張である。それは十分に納得できるものであって、本書では講義法を「学習者の知識定着を目的として、教育者が必要に応じてメディアを使いながら口頭で知識を伝達する技法」(4頁)と定義した上で、あくまでも講義/座学の中で学生がいわば「アクティブ」になる工夫を紹介している。以下はその一例である。

聞き手は、自分に話しかけられていると思わないと真剣に話を聞いてくれません。そのように思わせる方法の一つが、聞き手の目を見ること、つまりアイコンタクトをとることです。これは簡単な行為に思えますが、実際は難しいものです。1対1の場合は問題なくアイコンタクトをとれても、多人数が相手の場合は視線をどこに向けてよいのかわからず、教室の天井や後ろの壁を見ながら話す教員も少なくはありません。黒板やスクリーン、あるいは教科書や講義ノートを見つめながら授業を続ける教員も多くいます。これでは、非言語コミュニケーションを通して、学生には関心がないというメッセージを発信していることになります。
アイコンタクトをとる際の注意点は、漠然と全体を流すように見ずに、一人ひとりの目を5秒程度見ることです。その際、一つの文章ごとに1人の学生に視線をあわせるようにし、文章の途中で視線を移さないようにします。これを「ワンセンテンス・ワンパーソンの原則」と呼びます。
(略)
アイコンタクトをとることには、別の意味もあります。学生の表情や行動に視線を向けて、よく観察することで、理解度や興味・関心の程度を把握することができます。たとえば、教員を見る量が多い学生ほど、授業の理解度が高いことが明らかになっています。また、学生は興味深い場面で、「顔上げ」行動をとったり、微笑みや自発的なメモの量を増加させる行動をとったりします。
90-91頁

スライドに書かれた文字をそのまま読み上げないようにしましょう。「読む」対象と「聞く」対象が同じなので、学習者は重複感や単調さを感じてしまいます。これを避けるためには、スライドを読み上げ原稿のように作成しないことです。スライドは説明する内容をすべて書くのではなく、箇条書きにして、口頭のみで伝達する情報の余地を残しておきます。
そして、口頭のみで伝達する情報については、学生に視線を向けて話しかけるように説明します。講義法の主たる伝達媒体は口頭であり、スライドはあくまでもその補助手段であることを忘れないようにしましょう。この際、スクリーンやパソコン画面を見る機会は最低限にしながらも、口頭での説明内容とスライドの提示内容がずれていないかどうかをときどき確認しながら話します。
116-117頁

私が特に参考になったのは「スコープ」を定める方法についての整理である。教育学でいう「スコープ」と「シークエンス」の「スコープ」である。これまで「教科書準拠」や「学問準拠」ではない種類の授業を担当することが多く、そのスコープの定め方を経験的には理解していたつもりであったのだけれども、うまく言語化できていなかったためである。たとえば、以前の勤務先で担当した「大学での創造的学び」は、「学習者欲求準拠」でスコープが定まっていた。学生が望むことを予想して、内容について決定する方法であって、「多様なニーズをまとめあげ、それらに対応する内容を短時間で用意する必要があるという点で、教員の負荷は高い」(38頁)とのことである。書かれているとおり、学生のモチベーションが低い場合、さらに難解になる方法である。また、別の勤務先で担当した「現代若者論」は、「社会問題準拠法」である。わけのわからない(?)社会科学に触れ始めたばかりの学生に対して、身近なトピックを扱うことでモチベーションを高めることを目的の一つとしていた。「各種メディアを通じて、国内外や地域の事例・トピックを幅広く収集する必要があるという点で、教員の負荷は高い方法」(37頁)である。私の仕事は学生理解が必要なので当然そうした「収集」は常日頃から行っているのだけれども、やはり負荷は確かに高い。ともあれ、私自身の仕事に名前が与えられたような印象を持ったのである。


荒牧、桐生、昭和各キャンパスにいらっしゃる同僚の先生方へ
本書に限らず、授業に関する書籍百数十冊を研究室で所蔵しています。個人所蔵のものでありますけれどもご関心のある方にお貸しすることもできますし、できればこうした書籍を数冊ご購入頂けるとありがたいです。

「若者論を読む」勉強会

群馬大学 2017年度「若者論を読む」勉強会


毎月1回90分程度、「若者論」に関する自主的な勉強会を行っています。群馬大学の学部生、大学院生なら誰でも参加できます(自主的な勉強会の単位取得は関係ありません)。
これまで、

趣味縁からはじまる社会参加 (若者の気分)

趣味縁からはじまる社会参加 (若者の気分)

ブラック化する教育

ブラック化する教育

をの一部を読みました。次回は、コミュニケーション能力、「キャラ」化についての本を読む予定です。引き続き、参加者を募集しています。詳細については学内に掲示しているチラシをご覧ください。

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第3回(2017年6月14日の様子、おやつにもみじ饅頭を食べながら)

『反「大学改革」論』本が出ます

6月中旬に『反「大学改革」論:若手からの問題提起』が刊行されます。


(出版社さんから掲載許可を頂いた書影です)
https://honto.jp/netstore/pd-book_28478516.html
(honto:本の通販ストア)

本書の趣旨と問題意識
「これから大学はどうなっていくのだろうか」。
いま、この問いをもっとも切実に受けとめているのは、いわゆる「若手」、つまり三十代から四十代にかけての大学教員・研究者であろう。この世代は、一九九〇年代以降、急速に進められてきた一連の「大学改革」のただなかで、大学、大学院、そして大学教員・研究者生活を経験してきた。つまり、この世代は、自分たちが学生の頃に経験した「大学」が急速に姿を変えていく、その過程を、肌身をもって実感してきた世代なのである。また、文部科学省が主導する「大学改革」――もとより、文科省もまた、他の省庁や財界など、複数のアクターによるさまざまな要求の変換装置でしかないともいえるが――に、恩師をはじめとする上の世代の大学人たちが、不満や絶望を漏らしながらも従わざるをえないでいる状況を、間近にみてきた世代でもある。
(略)
編者、執筆者のそれぞれが、煩瑣で膨大な大学業務、あるいは生活をつなぐための非常勤講師とアルバイト、そしてそれらの合間をぬってかろうじて継続する自身の専門的研究で、ほとんど完全に忙殺されているなか、上記のような営みを遂行するにはかなりの労苦をともない、しかもとうてい十分になしえたとはいえない。しかし、それを承知のうえで、あえてわれわれは、不十分な本書の出版に踏み切ることとした。なぜなら、本書の何よりの目的は、大学と大学改革をめぐる、すべての大学人による公共的な議論のための呼び水となることにほかならないからである。「目的」というよりも、それがわれわれの「願い」であるといったほうが正しい。
「はじめに」p.ⅰ~ⅴ



 私は執筆者の中では、最もいわゆる「大学改革」に近い、いや、その言葉どおりの仕事をしてきたのでしょう。そのため、私がそれを批判的(否定的ではない)に論じることについて、不可解である、優柔不断である、修正主義者であるといった感想や疑念をお持ちになる方もいるでしょう。しかし、私としては日々大学の外部はともかくとして、大学の内部からも様々なご要望を頂戴して、その中には「大学改革」として提案されていることがらが相応しいものもあることゆえに、必ずしもすべての「大学改革」を否定するべきではない、しかしながら他方同時に、この本で書いたように教育学や、教育諸学の学説上不適切であることについてはしっかりと指摘するという立場をとっていることから、小さな論考を書かせて頂きました。こうした立場については、たとえば国家対大学、大学対財界、教員対学生といったように、何かしらのものごとを二項対立でざっくりと捉えたい要望がある場合には理解しにくいかもしれませんが、実践であれ理論であれ、「グリッド」をできるだけ細かくして考察するということが大切だと考えています。


 そのような扱いづらい立場をとるもう一つの積極的な理由は、学生によって「大学改革」が迫られているという現状認識があるためです。マーチン・トロウという米国の社会学者による高等教育の発展段階論は有名でしょうか。トロウは概ね若年層の人口に占める大学在学の割合が15%までをエリート型、15%から50%までをマス型、50%以上をユニバーサル型と名づけて、高等教育の「理念型」(理想の形という意味ではなく、社会学の考え方の一つですね)を示しました。そして、私がトロウによる整理の中で重要であると理解していることが、それらの段階の移行時点で、いくつかの矛盾が生じるというものです。これまでよく言われたことは、エリート型からマス型への移行段階での、世界的に流行した学生運動との関係です。現代に比べて通信手段が便利ではなかった60年代において一斉に学生運動が盛んになった理由のうちの一つを、当時の大学の変容に求めるというものです。日本の場合、「教授たちよ、研究室でのうのうとレコードでクラシックなんか聞きながら研究しやがって、俺たちは大学を出てもサラリーマンにしかなれないのに」という台詞があったでしょうか、大学生の位置付けが官吏や財閥系社員になることが決定されている戦前のようなエリートではなくなったにもかかわらず、講義(知識)の内容やその伝達形式、教員の振る舞い、教室の雰囲気、正統であると認められる文化等がそれに対応していないことへの苛立ちも関係していたかもしれません。そして、当時は「大学改革」という言葉は使われていないのですが、実は70年代に少しずつマス型への軟着陸が政策として進められました。学生から不評であった一般教養科目の柔軟化、私学助成を通じた教室や教員一人あたりの学生数の改善が行われたり、最も知られていないところでは、すでに今でいうリメディアル教育が開始されていたりもしました。


 さて、2016年3月の高校卒業者のうち、大学・短大進学者は54.8%、専門学校進学者は16.3%、合わせて71.1%でした。トロウの言うユニバーサル型に辿り着いています。エリート型の時代にマス型の在りようを予想できなかったのと同じように、マス型の時代には想像できなかったユニバーサル型の大学が実現しています。かつての学生運動とは異なる方法で、学生は問題を提起しているかもしれません。「先生たち、じぶんの好きな研究で給料貰えてていいよな、いろいろ自由そうだし、ネットでつまらないことばかり言ってたりするし、私たちは面倒で大変なシューカツをして『社畜』になるばかりのブラックな日常にいるのに」という声もあるでしょうか。学生による要求のうち「大学改革」と重なるもの/重ならないもの、対応するべきもの/するべきではないものを考察して、「大学改革」に関連するから全否定するというのではなくて、実践する/しないを決める必要があるはずです。

 
この本は、まさにその「現場」の最前線にいる若手が、安易に何かを決め付けてしまうことなく、「現場」の問題に向き合うために様々な矛盾や、ことがらのせめぎ合いに関してじっくりと考えたことの成果がまとめられています。執筆者陣の学問分野は多様なのですが、それぞれの論考から同じような張り詰めた学問的緊張感と、学生に向き合う厳しい真剣さが伝わってきます。執筆に関われたことを深く感謝しております。