教員A「この提出物は締め切りを過ぎてから提出されたものだよね。それに提出物としての要件をいくつか満たしていないようだけれども」
学生「申し訳ありませんでした。次からは気をつけます」(そして、深くこうべを垂れる)
教員A「いや、謝ってほしいのではなくて。どうしてこうなったのか理由を説明してほしいのだけれども」
学生「ほんとうにすみませんでした。今後は気をつけますので・・・」(身を縮めてしまう)
教員B「お父さん、お母さんはすぐに怒るひとじゃないかな」
学生「ええ、まあ、はい」



かつて私がその場に居合わせたことを描写したものである(公表できるように大幅な修正を施している)。このときすぐに思い出したのが、Bemsteinの言う「地位家族」と「個性志向家族」だ。この学生は「地位家族」の理念型に近い経験をしてきたのではないか、と推測したのである。あらかじめ家族の地位によって権威が配分されてしまっているので、細かいコミュニケーションを必要としない。子どもである学生が取るべき最良の方法は、とにかくすぐに親に対して謝ってしまうことである。説明をすればするほど怒られてしまうだろう。他方、もし「個性志向家族」の理念型に近い家族であれば、子どもがすぐに理由もなく謝ってしまうことはむしろ良くないことであって、親が納得するまで説明を繰り返したのだろう。
このエントリを書く理由は、今朝の朝日新聞で、中学、高校の授業が変わりつつあるという記事を読んだからである。


ネット版(朝日新聞デジタル 3月27日5時30分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150327-00000003-asahik-soci
「覚える」から「考える」授業 大学入試改革、先取りの動き


センター試験に代わる「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」や各大学の個別選抜テストにおいて、思考力、判断力、表現力、主体性、多様性、協働性などが評価されるようになるということで、それに対応するべく新しい授業の方法の開発が行われているようだ。
この大学入試改革はこれまで長い間問題されてきた「知識の詰め込み」を問題視した結果ということである(ほんとうに、「知識の詰め込み」が行われてきたのかどうかについては議論の余地があるだろう)。これらの新しいテストは具体的にどのようなものになるかどうかはわからないものの、現時点では漠然と「地位家族」には不利で「個性志向家族」には有利になるような印象を持っている。「精密コード」は「知識の詰め込み」よりも表現力、多様性・・・などに対してより親和的ではないだろうか。「限定コード」ではとても太刀打ちできないようにみえるのである。
再び粗雑なBemstein理解を披露して恥ずかしい。ともあれ、大学入試改革によって誰が有利になるのか、誰が不利になるのかという論点について注意しておきたい。




てか、教員Bの洞察力すごい。