「なんで英語やるの?」の戦後史 ??《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程

「なんで英語やるの?」の戦後史 ??《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程

本書の大きな問いは「英語必修化の謎に挑む」である。まえがきで説明されているように、中学校で「外国語」(たとえば、英語)が必修教科になったのは2002年のことである。それまでは制度としては選択教科であるものの、「事実上の必修教科」という位置付けにあったのである。
私が強く関心を持ったのは第1に人口動態の影響についてである。英語を学ぶことの必要性が増したことや関係者による運動の成果というよりは、ベビーブーマーへの対応、その後のいわば経路依存が「事実上の必修」をもたらしたという主張は納得できるところである。もちろん、筆者も指摘するとおり、高校進学率の増加、高校入試で英語を課すことが一般的になっていたことも、その背景として存在している*1。そのうえで、筆者が参考にする苅谷剛彦や小川正人の主張―人口減(児童・生徒の減少)は結果的に、または、ある場合には意図的に、教育環境を向上させる―は、現代の高等教育に関する議論ではあまり語られないことが気になるのである。人口減だけでは説明しきれない教育環境向上の理由もありそうだ。
第2に「社会の要求」の読み替えである。

このように、戦前型文化教養説が退潮していき、戦後型文化教養説が浸透していくことによって、英語教育の《国民教育》としての正当性は高まっていった。なぜなら、高校に進学しない生徒や、英語使用の必要性をまったく感じていない生徒にも適用可能な教育目的として、「教養」が利用できるようになったからである。これは、戦後初期に「英語=選択科目」という図式を生み出した「社会の要求」という理念への対抗言説となり得た。そればかりか、「教養」育成こそが、抽象的な意味での「社会の要求」にかなうものとして概念化されたのである。これにより、「英語教育はすべての生徒にとって必要である」という命題が成立する条件がととのったことになる。
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「社会の要求」はいわゆるプラスティック・ワードのような性格を持っている。そのことがよくわかる説明であった。ただ、英語を生活上必要としない生徒が「戦後型文化教養」をどのように受けとめたのか、より深く知りたいと思った。筆者はカリキュラムや教員構成といった制度だけではなく人びとの「声」に対して十分に注意を払っているので、もちろん「ないものねだり」のお願いではある。それに関連して、英文学のかわりに英語そのもの(聞く、話す、読む、書く)が「人格陶冶」に結びつくようになるということは、現代の高等教育における英語教育において「ビジネス英語」、「すぐ役に立つ英語」、「テストのスコアを高めるための英語」教育の対抗言説としてある程度存在している印象を持っている。教養と英語の関連について、さらに勉強してみたくなる。

*1:そのうえで、比較してみたいのが「教科情報」の必修化についてである。以前にも書いたかもしれない。そもそもの情報科学、計算機科学などの学問が教育に適する形に最文脈化される過程は複雑そうだ。「情報A〜C」から「社会と情報」、「情報の科学」の変遷も丁寧に追って勉強したい。